おきつね様の理由




 それは、えも言われぬ匂いだった。
 甘く、官能的で、心浮き立つような。
 遥かな時間に埋もれ、すっかり擦り切れ、消え失せてしまったと思っていた己の欲が、むくむくと姿を見せる。
 数千年の時を永らえ、この世にあることにすら厭いていたというのに、これほど身体が熱くなることがあろうとは。
 この匂いのものを存分に喰らいたい。
 さぞかし美味であろう。
 いったい、どのような甘露であろうかと、徒然に彷徨っていた足を匂いの漂ってくるほうへと向ける。
 早くしないと、他のものに取られてしまうという焦りと、未知の美味への期待で、数百年ぶりに空を駆けた。

 匂いに導かれるまま、足を進め、見覚えのある景色に首を傾げた。
 ここは、事務局ではないか。
 人間の歴史が長くなるに従って、増えていく神々を管理するために作られた機関。
 誰が言い出したか…考えればすぐにわかることだが、我らを制限する気はなさそうなので放置している。だから、これまでも関わったことなどなかった。
 だが、ここには『扉』がある。
 人間の世とつながる、唯一の『扉』。
 それがここにあるのは、ここが一番安全だからに他ならない。
 鬱陶しい場所へ来たものだと思うと同時に、納得もした。
 ここなら、ひとの世から何かが渡ってきても不思議ではない。きっと、また『扉』を開けっ放しにでもした粗忽者がいたのだろう。
 そう考えて、地上に降り立った。
 匂いはますます強くなる。
 涎が流れそうになるのを舌なめずりをして堪え、足を進めた。
 ああ、こっちだ。間違いない。
 極上の美味に向かって、走り出そうとした瞬間だった。
 …ひとの子?
 事務局の前に、小さな人影が立っている。
 気配でそれがこの世界のものでないことは、すぐにわかった。
 少し冷静になって、様子を窺う。
「どうしよう、遅刻する」
 心細げな、泣きそうな声だった。
 その瞬間、あれほど強かった匂いが消え失せた。
 不思議に思いつつ、声をかけた。
 この辺りには、神格の低い神や仙、神々の眷属として居住を許された妖怪たちが多い。力ないひとの子を己の領域に連れ込み、悪さをするものもいるのだ。
「そなた、ひとの子か」
 こちらを振り返ったのは、若い娘だった。
 肩の上辺りまでの黒髪と化粧っけのない顔は、幼いのひと言に尽きるが、造作はなかなかに整っている。
 黒目勝ちの大きな瞳と、ぽってりした唇が愛らしい。
 ひとの子を見たことは何度もあるが、どの辺りの時間から渡ってきたのかは、娘の服装から測ることはできなかった。
 彼女は我を見て、目をまん丸にしている。
 さて、何に驚いているのやら、と思ったわけだが。
「おっきい狐!」
 そこか。
「…狐言うな」
 これでも、上から数えたほうがずっと早い高位神だ。だが、娘は即座に「お狐さま!」と言い直した。
「おと様つければいいというものではない」
 娘の顔に恐怖や怯えはない。それどころか、とんでもないことを言い出した。
「もふもふします!」
「は?」
 もふもふ、とはなんだ。
「あとでいっくらでも怒られます! 死なないなら噛んでもいいです! だからお願い! その耳としっぽと魅惑の毛皮、もふらせてー!!!」
 叫ぶなり、娘が我の首に飛びかかってきた。
「え、お、あ、なにいいいいいいいい!?」
 なんだ、この力は! なぜ、頬ずりする! この娘っこ、何気に胸あるな!

 これが、我と千歳の出会いだった。



 そのあと、イマイチ緊張感に欠ける会話を続け、結局娘の面倒を見ることにした。
 理由はいくつかあるが、一番はやはりあの匂いだ。
 向かい合って話していても、何も感じなかったが、どうしても気になる。
 それに、話してみると、なかなかにおもしろい娘だった。
 何も考えていなさそうなのに、肝心要は押さえているし、世間を知らないわけでもなさそうだ。
 何より、洋菓子の職人だというのがいい。
 我は甘味を好む。
 神は、何も食べず、飲まずとも、魂や器の維持に困らないが、本性が獣のものは、食欲や性欲、睡眠欲の名残があるものが多い。
 我は神格を得てからの時間が長すぎて、そういったものはとうの昔に失っていたが、時折西の神から譲り受ける凝った甘味は、美味いと思うのだ。
 娘は、いろいろな意味で、我を刺激する要素を持っていた。
 彼女を手元に置けば、少しの間でも、無聊が慰められるやも知れぬ。
 ひとの子の命は儚く、短い。
 永きを過ごす神々にとっては、長い午睡ほどの時間だ。
 そう決めたというのに、娘はなぜか渋い顔をした。
 自分だけに旨味のある話が、胡散臭いらしい。
 警戒心が強いのは良いことだが、この世界は、ひとの子には厳しくはない。
 我ら神というのは、人間ありきの存在であるのだから。
 ひとのないところに、神は生まれ得ぬ。
 大多数の神や仙はそれを失念しているが、高位の神々はそれがわかっているから、迷い込んできたひとの子を手厚く保護するのだ。
 ひとりの信心が失せることで、この世界が崩壊する。
 そんな可能性を、我らは否定できぬ。
 本当のことは教えられないが、娘は自身の非力さと小ささを十分自覚しているのに、自然と神々を対等に取引する相手と看做していた。
 おもしろい。
 この娘、この世界でどのように過ごすのか、見てみたい。
 これまた随分とご無沙汰だった好奇心が刺激され、言葉を弄して、なんとか娘を住処に連れ帰ることに成功した。
 したのだが。




「黒陽様、いい加減、人型に戻って仕事してください」
 渋面で小うるさく説教するのは、家政係の白影だ。
 随分と昔、ガマの咲く丘でぼろぼろの毛皮を繕っているところを拾って以来、我が宮に住み着いてしまった。どうやら国津神に関わりのある兎だったらしく、やったらめったら知恵が回る。今ではすっかり、この宮の影の主人だ。
 執務室に強制連行され、側近たちにここに監禁されて、数刻。
 狐の姿でふて寝していたのが、気に食わないらしい。
 しかし、我とて腹を立てているのだ。
「…あれはどうしている」
「あれって何です」
「あの娘っこだ。そなた、難民申請につき合ったのだろう」
「ああ、千歳さんですね」
 どうやら、それがあの娘の通称らしい。
 我より先に白影が彼女の名を知ったことが、気に食わない。
 さっきだってそうだ。
 出迎えるなり、彼女に向かって言いたい放題言いおって。挙げ句の果てに、我より先に菓子をもらい、本性に戻って抱っこまでされるとは!
 苛立ちのまま、尾で床を叩くと、「埃が立つからやめてください」と顔を顰めおった。
「千歳さんなら、茶碗大盛り三杯ご飯食べて、厨房見学して、喧嘩売った亥黄に啖呵切って、菓子作ってコテンパンに伸した挙句、調理人たちの心鷲掴みにしてましたよ」
「まとめすぎだ。人型に戻って欲しいなら、きちんと話せ」
「どんな交換条件なんだか」
 わざとらしくため息をついた白影が語る内容を聞くうちに、先刻の比ではない苛立ちと怒りが沸き起こる。
「…というわけで、あの頑固一徹の亥黄も、千歳さんの職人魂には一目置いたようです。…黒陽様?」
 呼び止める兎を無視して、部屋を出た。
 腹の中でどろどろしたものが渦巻いている。
 白影は我よりも先に彼女の名前を知った。
 料理人たちも、我より先に彼女が作った異世界の菓子を食った。
 それだけのことだと言えばそれまでだが、ただそれだけのことが酷く腹立たしい。
 母屋を出て、千歳に与えた離れへ向かう。
 不寝番のものたちが何事かと近づいてくるが、我から放たれる怒気に怯んだように足を止めた。
 このままでは、力の弱いものは傍に寄るだけで消滅しかねないとわかっているのに、感情が制御できぬ。
「黒陽様」
 離れの玄関で、女官が拝礼していた。
 女官長の朱凛だ。
 あと数百年の時を経れば、神格が与えられる女仙は、「いかがなさいましたか」と訊いて寄こす。
「どけ。千歳のところへ行く」
「千歳様は既にお休みでございます」
「構わぬ」
 柳眉を寄せ、「ご無体な真似はなさいますな」と窘めてくる。
「随分とお疲れのご様子でございました。湯浴みのときには、もう眠たげでいらっしゃって」
「…なぜ、そのようなことを知っている」
「もちろん、お手伝いしたからでございます。夜のお化粧も、僭越ながらお世話いたしましたわ」
 瞬間、頭に血が昇った。
 我よりも先に、彼女に触れたものがいる!
 問答無用で朱凛を弾き飛ばし、玄関に飛び込んだ。
 明かりを落とした室内でも、夜目が利くし、千歳の匂いがする。迷うことなく寝室に踏み込み、寝台を囲む帳を振り払った。
 千歳の匂いと、風呂に使ったらしき香油の香りが広がり、怒りをほんの少し宥めていく。
 盛り上がった布団を鼻先でめくると、穏やかな寝顔が現れた。
 …起こすのは、可哀そう、か?
 少し身体を丸めて、くーくーと寝息を立てて眠る姿は、やはり幼い。
 どうしたものかと考えあぐねて、結局添い寝するように横たわった。
「んー…」
 前足を出して彼女の手に触れさせると、眠ったままサワサワと触り、へらっと笑う。…そんなに毛皮が好きか。呆れが、また少し、怒りを削いだ。
 見ていると、寝返りをうち、こちらに転がって、我の腹にぴたりとくっついた。そのまま、幸せそうな顔で手足を動かしたり、頭を振ったりしていたが、ゆっくりと目を開けた。
 黒目がちな双眸が、眠気にとろりと揺れる。
 顔を覗き込むと、ゆっくりと瞬きを繰り返した。
「起きたか」
「おきつね、さま?」
 舌足らずに言うと、不思議そうに首を傾げる。
「もう、朝?」
「いや、まだ夜は明けぬ」
「ふー…ん。じゃあ、なにか、ありました?」
 その呑気な言葉に、むっとする。
 我はあれほど心乱されたというのに、この小娘は気にもしていないというのか!
「菓子を作ったそうだな」
「かし…ぷりん?」
「ああ。白影が散々自慢していきおった。何故、我の分がないのだ」
 いや、違う。そこに怒っているわけではない。いや、やはりそれも腹立たしいが。
 そもそも、千歳を拾ったのは我ではないか。
 だが、彼女はどこかぼんやりした表情のまま、あっさりと言った。
「…おきつねさま、いなかった、から」
「ずっと仕事をしておったのだ!」
 していなかったが! 嘘も方便だ! 神だけど!
「んー…しごと、さぼってたから、でしょ」
 そう言われると、実は今日も仕事をしていなかった身としては、言葉がない。ぐう…ひとの子に言い負かされるとは、何事。
 しかし、千歳は我の言葉を封じただけでは飽き足らず、懇々と説教し始めた。
「ちゃんとごはんたべないし、おかしたべるためにごはんたべるとかへーきでゆーし。おっさんも、こーなも、いたちさんも、いっしょーけんめーごはん、つくってるのに。このぜいたくきつね」
 む、むむ。
「みんな、おきつねさまにおいしーもの、たべてもらいたいってがんばってるのにさいてー。そんなきつねにくわせるぷりんはない」
 そんな一方的に言わずとも。
 我にだって言い分はある。
「我は野菜は好かぬのだ。だが皆して、野菜を食えと言うから」
 狐は肉食なのだ。野菜食えと言われても、イマイチ味覚に合わぬし、そもそも本来、飲み食いせずとも問題ないのだから、食は完全に娯楽だ。娯楽で嫌いなものを食うというのは、いかがなものか。
 しかし、千歳は容赦ない。
「おきつねさまのけんこー、しんぱいしてるんでしょー。かみさまにかんけいあるかしらないけど。どっちにしても、すききらいするきつねにぷりんはあげない」
 言うだけ言うと、パタッと寝返りを打って、背を向けた。
 小さな背中が、どうにも我を拒絶しているようで落ち着かない。
 それに、やっぱりぷりんとやら、我も食べたい。
 白影によれば、口に入れる前から崩れそうにやわらかく、いざ口に入れると蕩けてあっという間になくなってしまう甘味だという。甘いだけではなくコクと旨みがあり、何とも言い表せない絶妙な味だとか。硬いだけのリンゴにも、いろいろと手を加えて、腰が抜けそうなほど香ばしく、美味いものにしてしまったとか。
 千歳が作った、それほどに素晴らしいものを、我だけが食べていないなどと、許せるはずがない。
「娘っこー、娘っこ―。我にもぷりん、おくれー」
 鼻先で、小さな背中をつつくが、返事もしてくれない。どうしたものかと思った瞬間、風を切って、拳が鼻に落ちてきた!
「ぎゃんっ」
 目の奥がチカチカする衝撃に、久方ぶりに獣のような悲鳴を上げてしまった…痛い。
 どうして我にだけ、こんなに冷たいのだ。
「ひどいー…我もぷりん、たべたいのにい」
 これほどに千歳が好きだというのに。…うん?
「おきつねさま、よるはねるじかんです」
「知っておる」
「なら、ねろ」
「でも、ぷり…」
「うるさい」
「ふがっ」
 唐突に、顔面の大部分が塞がれて、甘い匂いでいっぱいになった。
「ステイ」
「すて…?」
 聞き慣れぬ言葉を聞き返す暇もなく、千歳は舌足らずなくせに淀みなく、今の我にとって一番の脅し文句を吐いた。
「おとなしくねろってことです。わたしはねます。こんどおこしたら、うさぎさんにこうけんおねがいして、おきつねさまはおことわりする」
 白影を後見になぞしたら、千歳はきっと今以上に我に冷たくなるに決まっている。
 そうして、千歳は我の与り知らぬところで、どんどん己の居場所を作り上げていってしまうのだ。
 今日のように。
 千歳は、言うだけ言って、とっとと眠ってしまった。
 ひとの顔に覆いかぶさったまま。
 ため息をつき…彼女の匂いに紛れていたものに、顔を顰めた。
 ふんふんと鼻を動かして、確かめる。
 …気のせいではない。
 人型に戻って、獣のものより器用に動かせる手で、千歳の髪を掬った。洗って香油を塗りこんだ黒髪は、昼間見たときより艶が増しているようだが、やはりその香りの奥には、不快な臭いが潜んでいた。
「兎に鼬か」
 今日、千歳が共にいたものたちの神気だ。
 神気は、匂いであり、力である。弱いものは、強いものに負けてしまう。
 人間は端から神気を持たぬため、神気を帯びたものと過ごせば、魂魄に染みつきやすい。
 鼬の分は、元が我のものではあるが、完全に同じわけではなく、やはり不快だ。
「我のものだというのに…忌々しい」
 乱れて開いた寝間着の袷に手を差し入れて、白い胸元を肌蹴る。
 露わになったまろやかなふくらみに手を這わせ、細い首筋に舌を滑らせた。
「ん…」
 微かに呻いて、首を振る。だが、目覚めるほどではないらしい。
 目覚めてもよいのだが、と思いつつ、やわらかくなめらかな肌を舐め、淡い色の乳首に吸いついた。
 すぐさま硬くなるそれを舌で転がし、一方で括れた腰を撫で、脚の付け根の茂みに指を忍ばせる。
 割れ目に沿って指を動かすが、眉根を寄せるだけで目は開けない。
「このまま、抱いてしまうぞ?」
 乳房の形に沿って舐めおろし、やわらかな腿を割って、脚を開かせた。
 途端に、蕩けるような甘い匂いが広がった。
 千歳の肌から香るのとは、同じようでいて全く異なる芳しい香り。
 驚きに目を見張る。
 これは、あのときの匂いだ。
 やはり、千歳があの匂いの元だったのだ。
 だが、昼間のような飢餓はなく、身を焦がす欲が身の内からこみ上げてくる。
 共通しているのは、渇望だ。
 蠱惑的な匂いに誘われるように舌を伸ばし、そっと割れ目を探る。
 瞬間、「ふあ」と吐息のような声を上げた。
 その声音に、背筋が震える。
 もっと聞きたい。
 快楽に溺れ、蕩けてあられもなく乱れる千歳の声が聞きたい。
 意識のあるときに触れれば、きっともっと甘く、可愛らしく啼くのだろう。
 ならば、今は堪えよう。
 暴走しそうな本能を押さえ込み、彼女の肌から手を離して身を起こした。
 格子窓から射し込む月読の光に照らされて、白い身体がほんのりと光っているように見える。
 月の下でも美しいが、天照の鮮烈な光の中でなら、余すことなく乱れる彼女が見られるだろう。
 そう納得して、今は小さな身体を抱いて眠ることにした。
 腕に抱えて横になり、ふと思い立って、肌蹴たままの胸元に顔を埋める。
 うむ。やわらかくて、心地よい。
 あの匂いではないが、千歳の甘い香りも十分に味わえる。
 一先ず満足して、人間のやわらかい心地よさに目を閉じた。



 翌日、執務室にやってきた兎は、呆れも露わにため息をついた。
「随分とご機嫌ですねえ」
「そうか?」
「ええ。私がお小言食らわせる前に、ご自分から人型になって執務室に来ただけでも驚きなのに、自ら墨を磨り、仕事を始めているなんて、驚きを通り越して恐怖です」
「…お前、もう一回赤むけにして塩水漬けて海風に晒してやろうか」
「そんなことしたら、黒陽様にふっかふかの毛皮に嫉妬されて引き剥かれたんですって千歳さんに言いつけます」
 シレッと言って、徐にスンスンと鼻を鳴らした。
「随分とまあ、濃い匂いですねえ」
「そうか?」
 しらばっくれるが、兎は「白々しい」とため息をつく。
「千歳さんの身支度を手伝った朱凛が、染みついた黒陽様の神気に中てられてぐったりしてましたよ。まあ、人間に我らの神気をつけるのは簡単でしょうが、あなたがこれほど彼女の匂いをつけるって、いったいどんだけのことをしたんだか」
「わかっているのだから、わざわざ訊くな」
「嫌味ですよ」
「そうか」
 いつもなら煩わしいだけのやり取りも、今朝ばかりは気にもならぬ。
 思い出すだけで、頰が緩む。
 千歳の甘露は、正に極上の美味だった。
 実のところ、我らとて、女人の愛液を美味と感じるわけではなく、ものの喩えであるのだが、千歳のそれは、実際に甘かったのだ。
 やはりあの匂いが気になって、誘われるまま女陰に口をつけ、驚いた。
 味わったことのない甘露だった。
 匂い以上に甘く、舌が蕩けそうで、味わえば味わっただけ欲しくなる。
 そして、千歳が快楽に堕ちれば堕ちるほど、肌からも髪からも、花のような、蜜のような香りが匂い立った。
 あれほどの味も芳香も、我は知らぬ。
 酒にも酔うたことがないというのに、千歳には我を忘れてむしゃぶりついた。
「蜜人(みつびと)、か」
「はい?」
 決済書を並べていた兎が顔を上げる。
「いや、何でもない」
「はあ」
 遥か西、古の神々の間で「蜜人」と伝わる存在がある。
 男女を問わず、その身に極上の甘露を持ち合わせる人間のことで、巡り合ったものはその蜜に囚われ、他のいかなる美味でも満足できなくなるという。
 天上の美酒を日々口にしている神たちが、いつかはと追い求めるほどの甘露を持つ人間。
 酒の肴に聞いたときは、古き神というのは、人間ですら娯楽の対象にするか、と思っただけだったが、あれは大いなる間違いだった。
 蜜人の蜜は、味わううちにその人間そのものに執着させる魔力を持つとも聞いたが、あれも正しい。
 いや、そもそも我は千歳の性質に関心を持ったのだから、期待値は初めから高かったのだろう。
「なあ、白影」
「なんです」
「お前、千歳はほかの人間と少し違うとは思わぬか」
 紙の束を抱えた側近は、暫し考え込んだ。
「変わっているというか、動じない人間だとは思いますね。私たちの好奇の視線にも、亥黄のようなあからさまな敵意にも、飄々としていますし、見知らぬ世界にひとり放り込まれたのに、冷静に周りを観察しています」
「ふん…匂いはどうだ」
「匂い、ですか?」
 なんの話だとばかりに眉を寄せる。
「いや、いい」
 満足して、筆をとった。
 千歳の匂いは、我にしかわからぬらしい。
 鼬が彼女に喧嘩を売ったと聞いたときから、そうではないかと思っていたが、やはりだ。
 天狐ですら惑う匂いなのだから、この宮のものたちがあれを嗅げば、理性や感情など消え失せて服従してしまうだろう。
 ならば、あれは我のための蜜人だ。
 今朝、指と舌で彼女の身体を探ったが、千歳は間違いなく処女だった。
 あれほどの甘露を身の内に隠しながら、いかなる神とも交わったことがないのであれば、間違いはあるまい。
 神々が本人の意思を無視して、この世界に人間を留め置くことは相ならぬ。
 だから、我は何としても千歳にこの世界を、我を選ばせよう。
 今朝、触れたときは、最終的には抵抗せず、素直に身を任せていた。
 だが、あの娘のことだ、心まで許しているとは到底考えられぬ。
 これでいて、女受けする容姿である自覚はあるし、千歳がそれゆえに嫌悪感を持っていない可能性も否定できまい。あるいは、世話になっているから逆らい切れていないということも。
 今の段階では、処女の身体と魂魄は脆すぎて最後まで抱くこともできぬし、少しずつ情に絆されるよう、持っていくしかあるまい。
「まずは花…いや、もふもふだな」
「千歳さんですか」
 耳ざとい兎に、「ああ」と頷くと、意外な答えが返ってきた。
「なら、花よりも食材と調理器具のほうが喜ばれると思いますよ」
「なに?」
「どうも、菓子を作るには、ここの食材や器具だけでは足りないそうで。今日は『あわだてき』とやらを作れないか、試してみるそうです」
 我より兎のほうが、千歳のほしいものを知っていることにムカッとしたが、情報は情報だ。
 少し思案して、心当たりを探る。
「一度、西のほうに問い合わせてみるか」
「そうですねえ。あちらのほうが、千歳さんの希望に添うものがあるかもしれません」
「調理器具と食材と…ああ、亥黄を呼んだほうがはやいか」
「恐らくは。千歳さんから、根掘り葉掘り聞き出して、調理や食物に関わる神々の登録帳をひっくり返していましたから」
 兎に鼬の厨房長を呼び出すよう言って、床几の背に深くもたれる。
 千歳の蜜には神力を強化する働きでもあるのか、何とも言えぬ充足感に息をついた。
 さて、あの娘が菓子以外に喜ぶものは何であろうか。
 とりあえず、毎夜欠かさず肌を重ね、快楽を味あわせて、疲れたところを我の毛皮で癒してやろう。
 今朝も、やや不機嫌ながら、我の尾を抱え込んで幸せそうな顔をしておったことだし。
 時の流れなど、随分と気にかけたことなどなかったというのに、今日はやたらと天照の歩みが遅いような気がして、天を睨むこと十数回。
 やっと訪れた月読の衣を踏む前に離れに駆け戻った我は、本性に戻った朱凛とその部下たちを膝に乗せて、蕩けそうな笑顔を見せる千歳に愕然とすることになったのだった。
 …みんくのこーとのほうが値段が高い! とは、こはいかに。