七夕前の、ある日の話。




「たーなーばーたーしゃーらしゃらー」
「のーきーばーにーゆーれーる」
「いっく、ちょっきんしたー」
「ありがとー。うめちゃん、じょーずだねえ」
「えへ〜」
「樹、こっちの折り紙はどうするんだ」
「えっとねえ、おほしさまつくるの」
「切るのか」
「んーん、おりがみする」
「おっしゃん、あいっ」
「…雨芽、それは俺に折り紙しろってことか」
「うめちゃん、ぱぱ、おりがみへたくそだからゆるしてあげて」
「へたくしょ? だめねえ」
「樹、下手くそって言わない。傷つくから。雨芽も、ばーちゃんそっくりな言い方するな」
「「えー」」

 リビングで工作中のお子様ふたりと圭吾の会話を聞きながら、青紅葉の束から一枝を選り分ける。
「そうそう。メインにする一本を選んで…」
「こっちより、こっちのほうがいいですかね?」
「……そうね。整えやすそうだわ」
 私の手元をじっと見つめたお義母さんが頷いて、そばに置いてあった網目が荒く、持ち手の長い籠を手に取った。
「花器の二倍が目安だけど、枝葉のバランスで微妙に変わるし、青紅葉なら矯めたほうが見栄えがすることも多いから、少し長めに考えるといいのよ」
「はい」
 何の話かと言えば、和室の床の間に生ける花のことだ。
 お義母さんは、毎月季節の花を飾り、香を焚く。
 それが何とも言えず趣味がよくて、ずっと気になっていた。
 お華自体は、中高と母親に習わされていたから、基本的なことは知っている。でも、嫌々だったからか、全く身につきはしなかった。
 樹の剣道に合わせて小松崎家に通うようになって、お義母さんの手伝いをすることが増えたのをきっかけに、一から勉強し直したいと思い始めたのだ。
 基本的にガサツで大雑把な性格だから、お義母さんみたいにゆったり落ち着いた雰囲気のものが作れるとは思っていないんだけども。
 教えて欲しいとお願いしたら、二つ返事で引き受けてもらえて、花の選び方や花器の合わせ方に始まり、掛け軸や香炉の見方まで教わっている。
「もう七月だし、目に涼やかなものがいいわねえ」
「ですねえ。…そういえば、七夕のお花ってあるんですか」
「そうねえ」
 少し首をかしげて、考える。
「お華の先生のところに通っていたころは、いろいろ言われていたけど……今って、本当にいろんな花材があるでしょ。よっぽど格式のあるお茶席ならともかく、普通は季節のお花なら何でもいいんじゃないかしら」
「何でも…」
「美樹子さん、真行草って知ってる?」
「あ、はい。格分けのことですよね?」
 三種類の「格」の高さを定めたもので、日本の伝統芸能の多くで使われている分類だ。
 元は、書道から来ているものだと習った記憶がある。
「そうそう。華道は流派も多いし、格分けはあっても、解釈がいろいろだったりで結構自由なのよ。花展にだって、銀のお皿にブロッコリー載せて、パプリカ添えて出しちゃう時代だもの」
「…サラダですか?」
 ついツッコんでしまったが、お義母さんはおかしそうに破顔した。
「そういう流派があるのよう。確かに、ドレッシング持ち込みたくなるんだけど」
 そんな流派があるのか…。食欲刺激されそう。
「そんな状況だからね、おうちでやる分には、好きなお花を使えばいいと思うわ。七夕なら、オーソドックスに笹を使ってもいいし、ほら、白い桔梗を添えると星みたいでしょ」
 青紅葉の根本にテーブルから取った桔梗を当てがう。
「本当。青紅葉が天の川みたい」
「いい見立てね」
 傷んだ葉や込み合ったところを間引いて、生ける。
 元々の枝振りがよかったこともあって、私でも何とか見栄えがする形になった。
「うんうん、いいわ。やっぱり美樹子さん、上手よ」
「よかった。ありがとうございます」
 釣り籠に生けた青紅葉と白桔梗は、見るからに涼しげだ。
 でき上がった花を持って和室に行き、古いものと交換する。
 花蛭釘に籠を吊るし、お義母さんお勧めのお香を焚くと、ほっと息が洩れた。
 床の間の前に並んで座り、白檀の清々しい香りを楽しむ。
「この香炉、可愛いですねえ」
「でしょ。京都に行ったとき、土産物屋で見つけたの」
 蓮の葉と、その上に乗っているカエルの意匠で、コミカルなカエルの表情も相まって妙に惹きつけられる。
「一応、織部焼らしいんだけど、あんまりひょうきんな顔してるから、何も考えずに買っちゃったのよ」
「なんかわかります。愛嬌があるというか」
 顔を見合わせて笑ったときだった。
「あ、こんなとこにいた」
 声がした入り口に顔を向けると、美奈が立っている。
 実質実家とは言え、なかなかにヨレたスウェット姿で、寝癖もすごい。
「あら、美奈ちゃん。目が覚めた?」
「うん。おかげさまで、ゆっくりできました」
「よかったわ。日曜でも、なかなか休めないものねえ」
「やー、本当に。隆俊さん、まだ寝てるもん」
「桐谷先生、夜勤続きだったもんね」
 ここしばらく、患者の容体が落ち着かず、美奈も准教授も、宿直続きだったのだ。
 看護師の私と違い、医師は夜勤のシフトなんて組まれない。
 特に、本来宿直当番から外れているはずの准教授が自分の意思で入ってしまうと、休まずに翌日日勤になってしまうのだ。
 普段の週末は、それでも夫婦で協力して家事や雨芽ちゃんの世話をしているが、とうとう限界が来て、小松崎家にSOSを出した。
 それならばと、お義母さんが、昨日の土曜から雨芽ちゃんを連れて泊りに来るように言ったわけだ。
 我が家は、いつもの樹の剣道があるから、もちろん一緒。
 美奈は、昨日の夕飯に起きてきたが、准教授は文字通り、死んだように眠っているらしい。
「美奈ちゃん、おなか空いてない? 朝もお昼も食べてないでしょ」
「ペコペコです。実は、昨日の夕飯の記憶も曖昧」
「確かに、半分死んだような顔で食べてたな」
「なんかねえ、いつもなら、雨芽の声で反射的に目が覚めるんだけど、ここにいると、絶対誰かがなんとかしてくれるって安心感でどーにもこーにも」
 気持ちはわかる。
 小松崎のご両親以外にも、廻神さんやお手伝いの片山さんがいるから、自分が死んでもなんとかなると思ってしまうのだ。今回は、圭吾も私もいるし、医療的にも問題ない。
「それはよかったわ。とりあえず、食べるもの用意するから、お台所にいらっしゃいな」
「はーい」
「そういや、桐谷先生は? さすがに何か食べたほうがよくない?」
「んー…枕元に、空の食器があったから、いつの間にか何か食べてるとは思うんだけど」
 それ、死んでないか、と一瞬不安になったが、お義母さんが横から笑った。
「あ、それ、昨日の夜、持って行ったのよ。夜中におなか空いたら困るだろうと思って。食べてるんなら、よかったわ」
「何から何まで、お世話になります」
 頭を掻く美奈に笑って立ち上がったお義母さんに続く。
「美樹はお花?」
「うん。今日は青紅葉」
「いいねえ、涼やか」
 三人連れ立ってリビングに行くと、樹と雨芽ちゃんが相変わらず歌いながら、お絵かき中だった。
 床に座った圭吾の膝に樹が乗り、樹の上に雨芽ちゃんが乗っかっている。
「見事な三連コアラ…」
 美奈が呟いたと同時に、雨芽ちゃんが顔を上げ、「あーっ」と叫ぶ。
 クレヨンを放り出して、猛ダッシュし、美奈に突撃…いや、飛びついた。美奈も、すぐに抱き上げて、小さい背中をポンポンと叩く。
「まんまー!」
「雨芽ー、ごめんね。ずっと構ってあげられなくて」
「ねんね、ないない?」
「うん。もう大丈夫」
「ないないね、まんまあああああ」
 ひしっとしがみついて、あうあうと泣き始める。
 あー、やっぱり寂しかったんだな。
 普段から小松崎家に預けられているし、樹もいるから、なんとか持ち堪えていたんだけど、昨日の夜も、ちょっとぐずったのだ。
 普段、自己主張するし、駄々もこねるけど、二歳児とは思えないくらい泣かない雨芽ちゃんだ。でも、その分泣き始めると結構長いし、せっかくの母娘の時間を邪魔するもんでもあるまい。
 圭吾の膝の上で、手持ち無沙汰な様子の樹のそばに行き、手元を覗き込んだ。
「樹、七夕の飾りは終わった?」
「うん。みてみて、おほしさまー」
 折り紙を折って作った星に、細く切った色画用紙の吹き流しがついている。
 他にも、貝殻を連ねた飾りや、提灯、網飾りがテーブルにてんこ盛りだ。
「上手だねえ。いっぱいあるし」
「でしょー」
「これ、笹につけないの?」
「んー…」
 週明けが七夕だから、今日笹飾りを作る予定だったのだ。
 だけど、樹は、なぜか困った顔で圭吾を振り仰ぐ。
 旦那は、苦笑いを浮かべて、再会を果たした生き別れの親子状態の美奈たちに視線を向けた。
「桐谷が起きてきたら、一緒にやりたいんだと。ほら、これ」
 圭吾が指さしたのは、ピンクと水色の折り紙で作った鎖飾りだ。幅は不揃いだし、のり付けしているところも揃っていない。たぶん、圭吾が手伝って雨芽ちゃんが作ったんだろう。
「雨芽ちゃんの?」
「パパとママの分ーってな。樹も、それが分かってるから、桐谷が起きるまで待つつもりなんだけど、雨芽の前でそれを言うと、また大号泣するだろ」
「なるほど」
 美奈を見ると、うにゃうにゃ泣きながら一生懸命喋る雨芽ちゃんを抱っこして、あやしている。
 お義母さんが台所で食事の準備をしてくれているし、こっちに来て座ったら、と声をかけようとしたしたのだが。
「…うめぇ、そんなに泣いて、どーした」
「ぱっぱー!」
 ヌボーッと登場した准教授に、雨芽ちゃんが暴れ出した。
「うお…雨芽、落とす落とすっ」
「うめー、元気だなあ」
「ぱっぱーっ、ぱあああああああ」
 宙を泳ぐように、手足をバタバタさせる雨芽ちゃんは、顔面大洪水だ。
「やっぱり寂しかったのね」
「そりゃそうだ」
 つい呟くと、圭吾が頷いた。
「樹もそうだけど、言葉が早いとか認知能力高いとかで忘れがちなだけで、まだまだ親にべったり甘えてなきゃいけない年齢なんだから」
「ぼく?」
「樹も雨芽も、パパとママにいっぱい甘えろよーってこと」
 樹を抱きしめて、髪に唇を押し当てる。
 された息子はきょとんとしているが。
「あらあら、大変ねえ」
 ワゴンを押して現れたお義母さんが、「圭吾、樹くん、そこ片付けて」と声をかける。
「美奈ちゃんと桐谷先生、ごはん食べなさいな。雨芽ちゃんも、おやつにしない?」
 途端に、「まんま〜ぱっぱ〜」という泣き声に、「おやちゅううう」が加わる。食欲魔人は通常運転のようだ。
 紙袋に七夕飾りを入れてテーブルを空け、とりあえず美奈と准教授をソファに座らせる。
 雨芽ちゃんは、大きな目から涙をボロボロこぼして准教授にしがみつきつつ、美奈の袖も掴んで離さない。
「ぱっぱあ、ちゃいの〜〜!」
「え、痛い? あ、髭か」
 無精髭が生えたままだから、顔が当たるとジョリジョリするんだろう。
 お義母さんを手伝って、お茶を淹れる横で、樹が圭吾の顔をペタペタ触っている。
「なんだ、樹」
「んー、ぱぱ、おひげないね」
「…それはな、お前がおもしろがって抜こうとするからだ。あれ、死ぬほど痛いんだぞ」
 確かに、同居し始めたころに、珍しがった樹が寝ている圭吾の髭を毛抜きで抜いたことがあった。よっぽど痛かったのか、悲鳴を上げて飛び起きたのを覚えている。
 しまっていた毛抜きをどうやって持ち出したんだって驚きと、保育園児の手でよく短い髭をつまめたもんだって感動で、悪戯を怒っていいのかって圭吾が混乱してた。
 あれ以来、それまで以上にきっちり髭をあたるようになったし、毛抜きは厳重に管理するようになったんだよねえ。
「起き抜けだからおにぎりと鰻巻きにしたけど、足りなかったら言ってちょうだいね。お肉とか焼くから」
「ありがとうございます」
「何から何までありがとう、おばさん」
 お義母さんが置いた皿の横に、ほうじ茶の湯飲みを並べる。
「ほい、お茶」
「ありがとー。おねーちゃん」
「誰がおねーちゃんだ」
「だって、兄貴分の嫁だし。誕生日、美樹のほうが早いし」
「佐伯さんが義姉かあ」
「それ言うと、玲奈が義妹になるけどいいんですか」
 娘を抱いて硬直したところを見ると、玲奈が妹なのは問題があるらしい。
「ついでに、俺が義兄だけどいいんだな」
 横から茶々を入れた圭吾に、「お前みたいな隠し子多そうな兄、いらんわ」と唸る。
「隠し子なんぞおらん。ふざけんな」
「かくしごってなあに?」
 無邪気な樹の言葉に、男ふたり、気まずげに口を閉じる。
 おっさんたちを横目で睨みながら、お義母さんが目をくりくりさせている樹の前に、ガラスの皿とお手拭きを置いた。
 緑豆や小豆、黒豆各種がたっぷり入ったお手製の蒸しパンだ。ふかふかもっちりで、美味しい。
「樹くん、おやつよー。おしぼりで手を拭いてね」
「はーい」
「雨芽ちゃんも、樹くんとまんまする?」
 准教授にセミのようにしがみついているお嬢さんは、ぐすぐすしながら、皿を見て、樹を見て、珍しく嫌々と首を振った。
 美奈が、雨芽ちゃんに腕を伸ばす。
「雨芽、ママのとこにおいで。パパ、ごはん食べるから」
「…………や」
 頑固に首を振るのは、准教授が忙しすぎて、ろくに一緒にいられなかったからかもしれない。
 困った顔をしながらも、嬉しさを隠しきれないヘタレは、「しょうがないなー」と鼻の下を伸ばしている。
「隆俊さん、顔面が崩壊してる」
「え、そう?」
 旦那におにぎりを渡してため息をつき、美奈は箸でざっくり切った鰻巻きを口に入れた。
「んー、美味しい。栄養が沁み渡る」
 准教授も、鮭とワカメのおにぎりにかぶりついて、しみじみと呟く。
「美味い料理って、心が豊かになるな…」
「病院勤務の過酷さは知ってるつもりだけど、お前らんとこ、きつすぎないか」
 樹のために黒豆の蒸しパンを割ってやりながら、圭吾が眉をひそめる。
 ちなみに、私は圭吾の横でとっくにいただいていた。旦那が子どもの面倒見てくれるんで、助かる。
「今どき、どこの小児科もこんなもんだよ。小児科医、慢性的に不足してるし」
「まー、隆俊さんのは、完璧主義が過ぎて、下に任せられない弊害だけど」
「そんなことないってー。この間のは、七夕の飾り付けの手伝いしてたら、うっかり急患入っただけだし」
「普通、准教授にもなって、ナースステーションやプレイルームの飾り付け、手伝いませんけどね」
 つい、デコに青筋浮かべてツッコんでしまった。
 ビクッとする上司の顔を見ていると、先週の修羅場未満の修羅場を思い出す。
「どんなにコールしても出やしないし、方々に聞き回っても目撃情報ないし、どこに雲隠れしてんだと思ったら、プレイルームで星作ってやがったって、問い合わせ電話してきた耳鼻科の講師にうっかりゲロするとこでしたよ」
「す、すんません」
「星切ろうと大根刻もうと構いませんが、コールには秒で出やがれくださいってのが看護師一同の総意です」
「善…」
「善処じゃない。出ろ」
「はい」
 危うく、講義中の教授に回さなくてはいけなくなるところだったのだ。他に、決定権持ってる人間がいなかったから。物理的に無理だけど!
 さすがに職場では、ここまではっきり言えんが、今なら言える。
 公私混同だと言うなら言え、仕事のためだ。
「ぱぱあ」
「ん?」
「まま、せんせーにぷんぷん? わるいこ?」
「……パパにはわからんから、美奈に聞いてみろ」
「みなちゃん、せんせー、わるいこ?」
「悪い子だねー」
「そっかー」
「待って、樹くん、その哀れむような顔、やめて!?」
 雨芽ちゃん片手におにぎりを平らげながら、樹にもしっかりツッコむ。
 だが、うちの息子は強い。
「うめちゃん、わるいこのぱぱよりぼくとおやつしよ? あーんいらない?」
 笑顔で蒸しパンを差し出す辺り、本能的に自分の顔面の有効活用の術を身につけているのかもしれない。
 雨芽ちゃんも、父親にしがみついたままではあるものの、美奈のときとは違って、ウロ…と視線を彷徨わせる。
「樹くんっ、うちの子、誘惑しないでっ」
「おい、ひとんちの息子に因縁つけんな」
「因縁なわけあるか!」
 雨芽ちゃんをぎゅっと抱きしめた准教授と、相変わらず樹とコアラな圭吾の応酬を眺め、三つ目のおにぎり片手に、美奈が呟いた。
「まあ、仲が良くていいこった」
「仲いいんかい、あれ」
「一種のコミュニケーションなのかしらねえ」
 一緒にお茶を啜り、お義母さんがのんびりと頷く。
 ふと気づいたように、美奈が辺りを見回した。
「そういえば、おじさんは? こういうときって、大概一緒に騒いでるのに」
 途端に、お義母さんがため息をついた。
「廻神に手伝わせて、石窯の準備してるわ」
「てことは、今日はバーベキュー?」
「お友達から、スズキと岩牡蠣もらったんだって」
 朝っぱらから、いい笑顔ででかい鮮魚を掲げていた義父を思い出して、つい視線が遠くなる。
 何気に、これだけのメンツが揃うことが少ないので、たまに勢揃いするとお義父さんが暴走するのだ。お義母さんも、やれやれとばかりに首を振った。
「それに、大きなサーロインが冷蔵庫で寝てるのよ」
「…おじさん、とうとう畜産始めたとか?」
「樹くんが牛乳好きだからって、乳牛の里親みたいなのになってるけど、飼ってはないわ」
「投資はしてるのか…」
「税金対策も兼ねてね。冷蔵庫にある肉は、ご近所からのお裾分け」
「ここのご近所も、小松崎家に負けず劣らず、スケールでっかいよねえ」
 美奈が同情混じりに視線を寄越す。
 微妙に反論しづらさを感じつつ、緑豆の蒸しパンに手を伸ばし、ふたつに割ったところで、樹に呼ばれた。
 わちゃわちゃやっている圭吾たちに飽きたらしく、床の上を四つん這いでてこてこ移動してくる。
「ままあ」
「どうしたの」
「おねがい、かく?」
「お願い?」
 なんのことだと思いかけたが、美奈が「あ」と声を上げた。
「短冊じゃない?」
「ああ、なるほど」
 私の腕をくぐって膝に収まり、樹はにぱっと笑う。
「まま、いーにおい」
「匂い? あ、お香かな?」
「ぼくのおねがいねえ、ままといっぱいあそびまーすだよ」
 ぐりぐりと顔を擦りつけてくる樹は、やっぱり可愛い。
 雨芽ちゃんといると、お兄ちゃんぽく見えるけど、まだ保育園だもんな。
 美奈が、おもしろそうな顔で樹を覗き込む。
「樹くん、パパといっぱい遊ばなくていいの?」
「ぱぱ、せんせーとあそんでるもん」
 小首をかしげて、圭吾のほうに顔を向ける。
 おっさんふたり、眉をつり上げて何を白熱しているのかと思いきや。
「だいたい、俺が研修医んときにつきまとってきた女、お前からの流れ弾だったろうが」
「あれは、そもそもがお前狙いだったんだよ。俺はダシにされただけ。お前が大人しく飲み会行ってりゃ、俺が巻き込まれることはなかった」
「研修医期間に飲み会なんぞ行けるかっ。それに、あのころは『小松崎呼んどけば、なんとかなる』て言われてたの、知らないだろ。鍋奉行な上、女ホイホイだったから」
「要は、ひとのことを体良く使ってただけじゃねえか」
 いったい、なんの話をしているのか。
 阿呆な話に違いないが、雨芽ちゃんは准教授に抱っこされたまま熟睡しているようだ。
 美奈と顔を見合わせて、ため息をつく。
「ママのお願いも、樹といっぱい遊ぶ時間ができますように、にするわ」
 樹をきゅーっと抱きしめると、「やったあ」と笑う。
 そして、横のお義母さんに「おばーちゃんは?」と尋ねた。
 お茶のおかわりを淹れながら、樹の顔を眺めて目を細める。
「そうねえ…樹くんと雨芽ちゃんに、美味しいおやつ、いっぱい食べさせてあげられますようにってお願いしようかしら」
「おばーちゃんのおやつ、おいしーよ」
「あら、嬉しい。じゃあ、お夕飯のデザートも美味しいの出しちゃおうかしら」
「でざーと、なあに?」
「美味しい桃があるのよー。今日はお庭でバーベキューだから、井戸水で冷やしておきましょうか」
「やったあっ。もも、だいすき!」
 樹が歓声を上げる他のに、三人で笑う。その声に、何か硬い音が混ざるのに気づいて、掃き出し窓のほうへ視線を向けた。
「あれ、リリとルル」
 お犬様二頭が、ガラスをノックするようにカリカリしている。私が気づいたのを見て、一声ずつ鳴いた。
 樹を下ろして、立ち上がって窓を開けると、入れてくれというように上り口に前脚をかける。
「おっと、ステイ。雑巾持ってくるから、待って」
 慌てて掌を突き出すと、大人しくお座りした。
「ほれ、雑巾」
「あ、ありが…桐谷先生とじゃれるのは終わったの?」
 雑巾を差し出している圭吾に聞けば、むすっとした顔で、「じゃれてねえ」と唸る。
「雨芽が起きそうになったから、飯食うのに専念してんだよ」
「なるほど」
 賢く自分から脚を出してくるリリたちの泥を一緒に拭いながら、笑いを堪える。
「うわ、お前ら、いったいどこで何してたんだ。めちゃくちゃ土がこびりついてるぞ」
「クオン、クアアン」
「ワウン」
「何言ってるかわかんねえよ。ほれ、そっちの脚も出せ」
「ぱぱー」
「うおっ」
 後ろから飛びつくように、樹が背におぶさる。
 そこに、ルルがのしっと覆い被さった。
 圭吾を下敷きにして、樹と抱え合うような体勢だけど、これ、わかってやってるんじゃないかな…。
「重い!」
「るるも、ぱぱとあそぶ?」
「ワン」
 なんとなく、今のは「嫌」って言ったような気がする。
 ルルを払い除けるように身を起こして、圭吾が「樹っ、ルル!」と叱責の声を飛ばすが、樹は「きゃーっ」と大喜びしながら、外に飛び出した。
 子ども用のつっかけも置いてあるから、それを履いて庭に走り出す。せっかく足を拭きかけていたのに、リリとルルもそれを追いかけていく。
「この悪戯小僧どもっ」
 大人気なく、ひとりと二頭の後を追いかけて走っていってしまった旦那を見送り、ため息をついた。
 雑巾を踏み石の上に置いて室内に戻ると、美奈が「短冊どころじゃないねえ」と笑った。
「ま、夕方までに準備できればいいんじゃない」
「そだねー。隆俊さんも、また寝てるし」
「え」
 見れば、ソファで雨芽ちゃんを抱えたまま、寝落ちしている。
 美奈が、こちらも熟睡している雨芽ちゃんを抱き上げると、お義母さんがタオルケットを准教授にかけた。
「桐谷先生、本当にお疲れなのねえ。バーベキュー、しんどいんじゃないかしら」
「大丈夫。隆俊さんが食べるのに専念できるように、私が焼くし」
「「あんたは何もしなくていいから」」
 私とお母さんの声が、綺麗にかぶった。
「ひどい」
「ひどくない。レンジから火ぃ噴かせる女なんだから、本物の火なんて扱うな。家が燃える」
「こればっかりは、私もかばえないわ。美奈ちゃん、雨芽ちゃんのためにも、大人しく食べるだけにしときなさい」
 二人がかりで説得するが、美奈は不満げに眉を下げる。
「ちぇー。短冊に、料理できるようになりますようにって書こうかな」
「あのね、天の川の水を干上がらせるほうが簡単に思えるようなこと、願うんじゃないわ」
「神様にも、できないことがあると思うのよ」
「…美樹もおばさんも、私の扱い、ひどくない?」
「「ない」」
「雨芽ー、ばあばとおばちゃんがひどいー」
 泣き真似をしながら、抱っこした雨芽ちゃんの頭に頬擦りして訴える。
 でも、美奈の料理には、雨芽ちゃんも相当警戒してるから、起きてても同意は得られないと思うんだ。

 結局、短冊はデザートの桃にかぶりつきながら、みんなで大騒ぎしながら書いた。
 個人宅に飾るにしては、立派すぎる笹にくくりつけた短冊には、「睡眠時間」や「食事する時間」という切実すぎる願いに混じって、「みんな、いっしょ!」の豪快な文字が踊る一枚が混ざっていた。