おきつね様の計画
千歳を拾って、早二週間。
兎の機嫌が良い。
「黒陽様がほっつき歩かず、書類仕事を片付けてくださるおかげで、私も楽ができます。千歳さん、サマサマですね〜」
決済書の束を抱えて、満面の笑みだが、我は何も嬉しいことなどない。
「厨房も、仕入れはしたけどイマイチ使い道のわからなかった食材の使い方とか、新しい調理法を教えてもらえてありがたがってるそうですし、女官たちもおも…お世話できる方ができて、張り合いがあるようですよ」
「そうか」
「なんでそんなに機嫌悪いのか、わからないでもないですが、いいじゃないですか、嫌われるより」
兎の言うことがわからないでもないが、気に食わぬ。
千歳は、我のものだというに、他のものたちのほうが、一緒にいる時間が長いとは!
「それに、昨夜は千歳さんも喜んでたんじゃないですか。あわだてき」
「…ああ」
彼女が作ろうと四苦八苦していた「あわだてき」は、どうやら西で使っている調理器具だったようで、届いたそれを差し出した瞬間、目を丸くして大喜びした。
『お狐さま、大好き! 最高!』
見たこともないくらいの笑顔で飛びついてきた千歳の可愛さったら。
よほど嬉しかったのか、褥でも、今までになく甘えてきおって、堪らんかった。
初日から、毎晩肌を重ねているが、千歳は嫌がる素振りは見せない。恥ずかしがってはいるようだが。
それどころか、身体が慣れてきたか、少しの愛撫で蜜が滴るようになってきて、もう正直、我の理性が限界である。
火照ってほんのり染まった身体が我の精にまみれ、恍惚の表情で更にねだられると、禁じ手を使ってでも、最後まで抱いてしまいたくなる。
すっかり色欲なんぞ失せたと思うておったが、数千年程度では、動物の本能は衰えぬらしい。
今も、できることなら厨房にいるであろう千歳をかっさらい、寝室に閉じこもってしまいたい。
「…黒陽様」
「うん?」
「何考えてるか丸わかりの、濃い〜神気がダダモレになってます」
「そうか」
「そうかって、あなた」
「自身ではどうにもしようがないのだから、仕方あるまい」
「なら、とっとと千歳さんに神格を与えてしまえばよろしいでしょうに」
手元の報告書から目を上げると、兎が呆れの混じった顔をしている。
「黒陽様、もう千歳さんを手放す気、ないでしょう」
「ないな」
「なら、身体が神気になれるまで、なんて悠長なこと言ってないで、さっさと神格を与えるとか、眷属にするとかして、ひとの理から離してしまえばいい。そうすれば、抱けるし、ずっとお傍に置けるし、いいことづくめじゃないですか」
兎の言うことには一利ある。我も、その手を何度となく考えた。
だが、話はそう簡単ではないのだ。
「千歳の気持ちが我にないのであれば、意味がなかろう」
「何、乙女みたいなこと言ってんです。少なくとも嫌われてはないんだし、ひとも神も、気持ちよけりゃ、気持ちなんてあとからいくらでもついてきますよ」
この兎、現実的なんだか、即物的なんだか。
そういう暴走かまして、失敗した神々なんて、いっくらでもいるというに。
「あのなあ…お前も知らぬわけではなかろう、西の冥府の神の話」
「ああ、見初めた神々の娘を大神公認だからってかっさらっちゃった挙句、娘の母御が怒り狂って地上を不毛の地にしちゃって、生物を死に絶えさせたくなければ娘返せって大暴れしたってやつですか」
「それそれ。冥府の神が姑息な手を使って、四ヶ月だけ冥府に留め置くことに成功したが、娘御のほうは騙されたことにやはり怒り狂って、もう数千年は冷戦状態だというではないか」
「まあねえ。でも、あれはさらっちゃったから嫌われたわけですし、母御が迎えに来るまでもずっと娘御は冥府の神を徹底拒絶で、指一本触らせてもらえない、口も利いてもらえない、顔見るだけで花瓶が飛んでくるって具合だったんでしょう。あれに比べたら、だいぶ希望はありますよ。なんせ、初日から寸前までやっちゃっても、嫌われてないんですし」
好かれていると嫌われていないでは、大いなる差があると思うのだが。
ため息をつきつつ、報告書の最後に受領印を捺し、執務机に放り投げた。
「終わったぞ」
「はい、じゃあ次…あれ」
「もうないだろう」
周りを見回す兎にもため息をつく。
「お前、我がどれだけここに籠っていたと思っている。当分は書類仕事なんぞないはずだ」
「本当ですねえ。てか、毎日やってれば、一日以上籠る必要もないんですが」
小言はさらっと流して、立ち上がった。
「黒陽様?」
「千歳の顔を見がてら、領地巡回に言ってくる」
領地持ちの神々の最も重要な仕事が、己の神気を領地隅々まで行き渡らせることだ。
地位の低い仙や妖怪たちにとって、神界は空気の薄い場所と同じようなもので、不足すれば則存在の維持が危うくなる。そこで、上位神と眷属契約を結べば、眷属となった上位神の神気は、いわゆる酸素を補う働きをする。神格の低い神にとっても、自身の神気を安定されるのに必須であり、欠かせないものだ。
領地を持つということは、己の領域に住まうものたち全てに責任を負うということであり、生半な神では負い切れるものではない。
我も本来は自由気ままを愛する獣であり、領地など興味もなければ、持ちたくもなかった。
今となっては、この地位と領地があるから、千歳を保護できたわけで、そう悪いものでもないと思っているが。
「いってらっしゃいませ」
兎の見送りを受けて、千歳が来るまでは行こうと思うことすらなかった厨房へ足を向けた。
この宮の中には、数千の神や仙、妖怪たちが暮らしている。
皆が皆、果樹園や菜園、鶏舎などで仕事を持っていたり、宮の中で業務を分担したりして、日々の生活を送っている。
食物をとらずとも存在を維持できるものは、神々の中でも少なく、基本的には何らかの「命」を摂取せずに永らえることはできぬ。人界では、殺生を禁じ、生臭を食うことを戒めているものたちもいると言うが、存外神々は即物的な存在である。
狐の姿で農園の横を通ると、遠目に牛の世話をしているものたちが頭を下げる。傅かれるのにも、数千年ですっかり慣れてしまった。我も、元はただの野干だったというのに。
そういえば、亥黄が千歳の欲しがっているものに牛の乳があると言っておったな。なんでも、西の食材であるばたーやらくりーむが、牛の乳からできておるのだとか…肉用の牛しかおらぬが、乳牛とやらも飼うてみるか。
そんなことを考えつつ、厨房に近づくと、何やら騒めいている。
「美味しいのは、ここの卵とお酢が美味しいからだと思いますよ」
「酢と卵なのか? この味が?」
「あと、油と塩と砂糖も入ってます」
「え、それだけ!?」
何事かと入り口を覗き込んだ。む、狭い。
「千歳」
声をかけると、こちらを振り向いた千歳がパッと笑った。可愛い。
「仕事は?」
言うことはシビアだ。元の世界でも、朝から深夜まで働く仕事をしておったようだし、仕事には厳しいのだろう。おかげで、さぼれぬ。
やることはきっちりやったと主張しつつ、食事台の上の皿が気になって仕方ない。今まで嗅いだことのない匂いだが、鼬どもが美味い美味いと叫んでいたのは聞こえていたのだ。
人型に戻って中に入り、手を伸ばすと、さっと取り上げられてしまった。
何故だ。
鼬どもはたっぷり食っていたというのに。あの鼬なぞ、顔中、まよねーずとやらまみれではないか。
だが、千歳の言い分は、他のものの食いさしだから駄目だと言うもので、少し機嫌が浮上した。
その後、まよねーずの実演でにじり寄ってくる鼬どもを鬱陶しく思いつつも、純粋に千歳の料理に興味があるだけだとわかっているから、ぐっと我慢し、とりあえず後ろから抱きしめることで我慢した。
出来上がったまよねーずは、本当に美味かった。鼬が頭から突っ込んだのもわかる。
しかし…我はてっきり、千歳は料理が好きだと思っていたのだが、違うのか?
職人だから、己の仕事に誇りを持ち、真摯に取り組むというのはわかるのだが、千歳の様子は、そういうものとはちと違うように見えた。
鬼気迫るというか、妙に切羽詰まっているというか。
もっと楽しげにしていると思っていたから、その差に少々戸惑った。
弁当を作ってくれるという言葉に浮かれながらも、魚を茹でているときも、握飯を作っているときも、ずっと険しい顔をしているのが気になり、仕方なかった。
真剣な表情、というのとは、やはり違うように思う。
だが、その場で聞くにはどうにも気が引けた。我も、己の違和感をどう表現したものか、不明瞭なままだ。
それに、千歳の手製弁当!
どうにも嬉しくて気分が高揚する。おまけに、「いってらっしゃい」と見送ってくれた。
同じ言葉でも、兎に言われるのとでは、天地ほども違うな!
引っかかるものを抱えつつも、狐姿に戻り、竹皮包みの紐をくわえて、うきうきと巡回に出た。
我の領地は、宮を中心に六角形に広がっている。
東西北の三方を他の神々の領地と接し、南は神海に面しているため、海産物が多くとれ、いわゆる豊かな土地だ。過去に数度、領地を譲れと天津神の末族から言われ、逆らうのも面倒で譲ったことがあるが、十数年もしないうちに、返された。
理由は単純、神海のある領地は、神力が抜けやすいのだ。
穴の開いた柄杓に水をそそぐようなもので、常に相当量の神力を供給できないと、神々はおろか、領地そのものが神性を失い、荒廃する。
我は、元は畜生だったものが、様々な欲や情念を拗らせて生き永らえ、妖力を得た末に神格化した。野干だったからか、天津神国津神が生まれながらに持つ柵がなく、天地(あめつち)の全てから神力を得ることができる。逆に言えば、神力を放出せねば、溜まりすぎた力が凝り、毒素となりかねぬのだが。
ともかく、狐の姿で宮から東へと空を翔けた。
春の今、見下ろす地上は緑が萌えている。だが、我の領地には花が少なく、彩りは淋しい。
動物が本性の神のもとへは、やはり動物の神仙が集う。
ふと、千歳は花が好きだろうか、と思った。
喜ぶものを、と考えて調理器具を与えたが、今日の様子から考えると、どうもあまり良いようには思えぬ。
仕事がはかどるのは良いことなのだろうが、千歳にとって、それが良いことなのか、ちと自信が持てないのだ。
なんと言うたものか…料理をしているときに千歳は、何かと戦っているようにも見えた。何と戦っているのか、さっぱりわからぬが。
この二週間、千歳と交わした言葉を反芻する。
『連絡する相手、いないので別にいいです』
『成人前に両親が亡くなって、手に職つけないとって思って、菓子職人になったんですよ』
『親戚とか、いるにはいましたけど、お互い、あんまりいい感情持ってないんで、私からは連絡取ってません。私がいなくなっても、気にするひとって少ないですよ』
『友人、ねえ。生きるのに必死で、遊ぶとかあんまりなくて。ひとりでゆっくりするのが趣味っちゃ趣味だったから、思いつくひとはいないなあ』
ひとの世は、千歳のように縁の薄い生き方が普通なのだろうか。
少なくとも、親の庇護を受けて当然の年齢で、世間に放り出されることは「普通」ではないのではなかろうか。
ならば、千歳が生きるために身につけた職人としての技術は、彼女を安らげるものではない…のか。
あわだてきには、本当に喜んでおったように思うし、楽しんでいるのも嘘ではないのだろうが、裏腹に痛々しさのようなものを感じた。
取りとめなく、いろいろ考えながら空を翔けるうち、気がつけば領地の端にまで来ておった。
この先は、他神の領域だ。
我が領域に比べて、植物が多いそこは、彩り豊かで、ほのかに花々の香りが風に乗って漂ってくる。
…千歳を連れてきてやったら、喜ぶだろうか。
花よりも調理器具を与えてしまったが、女人なのだから、殊更に花が嫌い、ということはあるまい。…ない、よな?
一度は却下した案だが、思いつくといてもたってもいられず、方向転換した。
向かうは、季節の神々の住まう領域だ。
千歳がどのような花が好きかわからぬから、今日は一番彼女に似合いそうなものを選ぼう。
四季を司る神々が持つ花はいくつかあるが、その中で千歳にぴったりなもの。
筒姫の花は、大輪すぎる。
竜田姫の花は、色が鮮やかすぎる。
宇津田姫の花は、慎ましやかすぎる。
やはり、佐保姫の花が、いい。
花は小さいが、香りが良く、五枚の花びらは繊細で、白と見紛う淡い紅は、幼くはあるが凛とした千歳にぴったりだ。
山を越え、河を越え、四季の女神たちの領域を目指した。
お、そろそろだな。
一面、春の花が咲き誇る野が広がり、空気が暖かく湿り気を帯びる。
佐保姫の住まいである巨木を眼下に捉え、狐姿のまま、佐保姫に呼びかけた。
「佐保の姫、いるか」
様子をうかがっていると、巨木の枝が揺れ、白い肩巾がふわりゆらりと見えた。
「誰…あれ、天狐?」
巨木の天辺に立つ乙女がこちらを見上げ、目を見張る。
「降りてもよいか」
「いいわよ。てか、どうしたの、珍しい」
枝に降りるには、狐姿では少々大きすぎるため、人型になった。
巨木の太い枝に足を下ろす。
久方ぶりに会う友人は、年の頃は千歳と同じくらいに見える。豊かな黒髪を結い上げ、唐衣を着た少女の姿だが、中身は「漢」だ。
「拾ったひとの子に入れあげて、寝室から出て来ないって専らの評判なのに。なになに、ヤリすぎて嫌われた?」
ワクワクと下世話な好奇心全開である。
「…情報源はどこだ」
「いろいろ。とりあえず、ひとの子の名前が千歳ちゃんで、あんたが後見を名乗り出て振られたってとこまでは聞いてる」
ケロっと言うが、ここから我の宮まで、相当な距離がある。天狐の脚だから半刻で済むが、普通は結構な時間がかかる遠さだ。
「あんたの宮の神仙たちが、やっと奥方がキタ! って大喜びしてるらしいじゃない。可愛らしい美少女なんでしょ? あんた、こないだまで男色だろうって言われてたのが、この数日で幼女趣味だったらしいって神界で噂回ってるわよ」
「神々は暇なのか」
「そりゃねー、中東辺りの支部は、ここ十数年、修羅場続きだし、キリスト教関係もそれの煽り喰ったり、元々人間たちが宗教イイワケに暗躍してたツケがきてたりで寝る間もないんだろうけどさ。日本支部はもうゆるーいじゃない。天津神も国津神も、余所のもんが割り込んでくるの、仏教で慣れちゃってるから、余所の神の子の誕生日だの、異教徒の聖人の命日だのでひとの子が大騒ぎしてても、屁でもないし。こないだは、月読が最近の流行りは異国の妖怪の恰好で、百鬼夜行らしいぞって言ってたわ」
「…そうか」
ため息をつき、ともかくもここに来た目的を果たそうと決めた。
「千歳のことを知っているなら、話は早い。彼女に花を贈ろうと思ってな」
「ほう」
「だが、我の領域には適当なものがないので、分けてもらえぬかと」
「ふむ」
少し考え込んだ佐保姫は、辺りの地面を眺め回した。
「この辺に咲いてる花なら、どれ持って行ってもいいけど…何か希望とかあるの?」
「ああ。できれば、佐保の花が欲しいのだ」
「あら」
軽く目を見張るのは、やはりそれがただの花ではないからだろう。
四季の女神の名を冠した花々は、女神たちが管理しているもので、他の季節の花のように気軽に持ち出せるものではない。
だから、特別に譲ってもらってまで贈りたい、というのは、それほど我にとって千歳が特別な存在なのだと言っているのと同義。
何事か思案するように首をかしげ、佐保は「そうねえ」と呟いた。
「聞きたいのだけどね」
「ああ」
「どうして佐保の花なのかしら。若い女性に贈るのなら、筒姫や竜田の花のほうが見栄えがするでしょう」
「確かにそうかもしれぬが、千歳には似合わん。あれには、小ぶりでも可憐で匂いの良い花が似合う」
「あ、そ」
呆れたようにため息をつく。む、なんなのだ。
だが、我が何か言う前に腕を振り、「佐保の花をお持ち。籠にいっぱいね」と眷属の春風の精霊に命じた。
「…いいのか」
あっさり大切な花を分けてくれる女神に、思わず確認してしまう。普通、くれと言ってもらえるものでもないからだ。我の探る視線に肩を竦め、佐保は「いいわよ」と笑った。
「野暮天の代名詞みたいな天狐が女に花を贈るってんだから、友人としちゃあ力になるしかないでしょ。それで? いつ求婚するのさ」
「それなあ」
兎にも言ったとおり、我は千歳を手放す気はない。
千歳も、元の世界にあまり未練はないようだから、この世界に留まってくれと頼めば、存外頷いてくれるかもしれぬ。
しかし、それではダメなのだともわかっているのだ。
肩を落とすと、佐保が眉を寄せる。
「…なんか、噂以上に面倒がありそうね?」
「うむ」
「しゃーない。ついでに相談に乗ったげるわ。下に降りましょ」
「ん?」
見れば、木の下に卓が用意されている。
「あんたが大切そうに握りしめてるそれ、弁当でしょ。千歳ちゃん作?」
「ああ。まよねーずとつな、とやらで握り飯を作ってくれたのだ」
「へー。菓子職人だって聞いてたけど、いろいろ作れるのねえ」
言いながら地に降り、石卓についた。
佐保姫の眷属が香り高い緑茶を出してくれたので、弁当を食うことにする。
向かいに座った佐保は、興味深そうにしているが、くれとは言わない。四季の女神たちは、己が管理する植物しか摂取できぬからだ。
今も、佐保の前には春の花々と香草で作った茶と、春の花の蜜があるだけだ。
紐を解いて竹皮を開くと、綺麗な三角形の握り飯が三つと、焦げ目のない卵焼きが三切れ、整然と並んでいる。
「おお、見目良いわね」
「味も良いぞ」
味見した鼬も理性失いかけてたしな。
うきうきと頬張り…硬直した。
「天狐?」
不審げな佐保に返事もできず、食べかけの握り飯を見つめる。
なんだ…この味は。
海老で食ったときも、初めての美味さに驚いたが、なんなのだ、この「つなまよ」とやらは。
見ていた限りでは、茹でた魚の身とまよねーずを混ぜていただけなのに、米と驚くほど合う。
「ちょっと、しっぽ出てるわよ。…そんなに美味しいの?」
「うまい」
いかん。これは耳でもしっぽでも出る。美味くて堪らぬ。
卵焼きも、なんだと言うのだ。このやわらかさ! まるで千歳の魅惑の乳房か尻のようではないか。…これはいくらでも食えるな。
無言で米粒ひとつ残さず平らげた。ううむ…竹皮を舐めてしまいそうだ。
腹はくちたが、まだまだ食いたいという相反する感覚を持て余しつつ、冷めた茶を啜る。
「いい食いっぷりだこと」
「美味いからな。まだ食えそうだ」
「さよか」と頷き、佐保は木匙で掬った蜜を口に運ぶ。
「すっかり枯れ果てたジジイみたいなあんたの性欲と食欲、掘り起こせるんだから、たいしたもんね、千歳ちゃん」
「うむ。全く運命だな」
「どんなノロケだ。で、そんな超絶可愛い嫁候補が傍にいるのに、何持て余してんのさ」
「ああ…」
実際、女人のほうが千歳の気持ちはわかるかもしれぬ。
かいつまんで、これまでのことと、今日抱いた違和感について説明した。
「ふーむ」
一通り聞き終わった佐保は、難しい顔をしている。
ややして、「とりあえず、今、言えることは」と切り出した。
「連れてきたその日に、夜這いかけんな、阿呆狐」
「焦っておったのだ」
「そーれーでーもー。幸い、千歳ちゃんが拒否してないからいいものの、あんた、ヘタすりゃ顔も見たくない、変態助平狐って包丁投げられてるとこよ」
「むう」
無意識に、出ている尾を振ってしまう。バタバタと草を叩くと、「虫が驚くからやめろ」と往なされた。
佐保は茶碗を持ち、顔を顰める。
「でもまあ、聞いてる限りじゃ、毎晩拒まれることなく同衾して、千歳ちゃんも気持ちいいみたいだし…一度、きちんとあんたの気持ちを言葉にしておいたら?」
「最初に、他の男のにおいをつけるのはダメだと言ったが」
「それじゃあ、子どもが玩具を独り占めしたいのと同じでしょ。それを求愛だと勘違いできるほど、おめでたい頭してない子だと思うけど」
確かに。
「千歳なあ、褥では少し甘えてくれるのだが、それ以外では他のものと我に対する態度が同じなのだよ」
「なら、やっぱり言葉は必要よ。佐保の花を持って帰って…そうね、一緒に風呂でも入んなさい」
「風呂?」
何故、風呂なのだ。あれは穢れを落とすところであろうに。
よくわからぬ我に、佐保姫はにんまりと笑った。
「寝室って、あんまり灯りがないんでしょ?」
「そうだな。月明かりと小さい行灯くらいだ」
「あんたは狐だから不自由はないんでしょうけど、千歳ちゃんはきっとそうじゃないわ。だから、お互いがちゃんと見えるところで触れ合って、千歳ちゃんを甘やかしてあげなさい」
「…ふむ」
「人間も動物も、暖かくて寛げる場所のほうが性欲が増すものよ。聞いた限りじゃ、たぶん、千歳ちゃんは他人の温もりの心地よさに飢えてる。きっと、早くに親を亡くして、自分のことは自分で守ってきたんじゃないかしらね。親猫をなくした子猫みたいに」
そういえば、千歳は寝ているときも、完全に力を抜きはしない。
ここ暫くでだいぶマシにはなっているが、肩や背中が強張り、いつ、なにが起きても飛び起きられるような状態なのだ。野の獣のように。
「処女なのに、あんたが触れるのを拒否しないってことは、自覚してない部分で好ましいと思ってるんじゃないかしらね。あとは…恐ろしく自己評価が低いか」
「ああ…」
思わずため息が出た。
それは、我も気づいていた。
千歳は、自身をいかほどの価値もないと思っているフシがある。
はじめは恐ろしく楽天家なのだと思っていたが、あれは違う。
何もかも、心の奥底ではどうでもいいと諦めているのだ。
たとえばの話、無理やり抱いていたとしても、きっと笑って諦め、投げ出していたのだろうと思う。
どうでもいい。
どうせ、自分はたいしたものではないのだから、どうでもいい、と。
いったい、なぜ、あれほどに自分を粗末にするのか。
親を亡くすということは、それほど心に虚(うろ)を創り出してしまうものなのだろうか。
どうにも、それだけではないような気がして仕方ないのだが。
「心当たりがあるみたいねえ」
「そうだな。あるにはあるが、だが、どうしてやればいいのかはわからぬ」
茶を啜り、「そうねえ」と小首を傾げる。
「とりあえず、あんたが絶対的な庇護者で、同時に守って甘やかしてくれる男なんだって思わせなさい。あと、言葉や態度を惜しまず、千歳ちゃんが大切なんだって伝えること。自分に価値がないと思ってる子なんだったら、時間と手間をかけるしかないでしょうよ」
花を育てるのと同じ、と言う。
確かに、千歳は蕾のようなものなのかもしれない。
自身の価値に、まだまだ気づかぬ、可能性を秘めた蕾だ。
なら、やはり我が彼女の花を咲かせたい、と思う。
「料理してるのが戦ってるように見えたのって、言葉通り、仕事が千歳ちゃんにとって生き抜く術で武器だからなんでしょう。困難に挑戦することを楽しめる子なんだろうけど、ずっと戦いっぱなしじゃ、いつか疲れ果ててダメになるわよ、ひとでも神でも」
「説得力があるな」
感心しきりに言うと、ふっと笑う。
「そりゃね、有史以来、春を守ってきたんだもの。命が死に絶える冬の管理者も大変だけど、眠るものたちを呼び覚ますのも骨が折れるのよ。でも、役目がなくなったら、私は私ではなくなるわ。それは誇りであるのだけど…同時に、途轍もなく重くなるときがある」
言葉とは裏腹に軽やかに笑い、「依存させるのではなく、頼れて安らげる良人(おっと)を目指しなさいな」と言う。
「そうだな…元の世界では、他者との縁が薄かったようだし」
「なら、ここで離れがたいと思うくらいの新しい縁を作ってあげなさい。あと、夫婦は会話が重要」
生きとし生けるものの繁殖をも司る女神は、籠いっぱいの花を手渡し、見送ってくれた。
その日の深夜。
狐に戻り、まだどこか呆然とした心持ちで懐で眠っている千歳を眺めていた。
…佐保よ、我はますますよくわからなくなったぞ。
花は、確かに千歳を喜ばせたと思う。
湯の中で、揺れる花を眺めたり、匂いをかいだりして、嬉しそうにしていたから。
あわだてきを贈ったときとは、ちと種類の違う反応だったし。
だがな。
喜んだ勢いで、あんなことまで、してくれる、もの、なのか。
湯の中で、我のものに触れたり。
寝台に移ってからも、千歳はどえらい積極的でな。
いきなり、我に跨り、我のものを舐めたいと言い出すから、度胆を抜かれた。
『だって、挿れたいのに挿れられないの、男のひとは辛いんでしょ?』
小首をかしげて可愛らしく言えばいいと言うものではない!
いや、そのような愛撫の仕方があるのは知っとるがな! 千歳の小さい口が我のものを咥えて、吸ったり舐めたりしゃぶったり…ダメだ、狐に戻る。
必死で出そうな耳と尾を堪え、我の精が口から体内に入っても濃い神力に身体が持たぬかもしれぬと言い聞かせた。
なら仕方がないと諦めてくれてホッとしたのも束の間、「じゃあ、せめていっぱい気持ちよくなって」と言い出した。
我の腹に跨って、蜜の滴る割れ目で我のものを押さえ込んだのだ。
『んんっ…ソープのおねーさんとか、こうやって、男のひと、気持ちよくするらしいんだけど、私も、気持ちいい』
我の腹に手をついて前後になまめかしく腰を動かし、我のものを扱き上げる千歳は、もう目が潰れるかと思うくらい、淫らで艶めかしかった。
堪えきれず、魅惑的に揺れる乳房を掴んだら、猫の子のような声を上げて、倒れこんできて。
『こくよ、おっぱい、ダメ』
掠れた声と、火照った顔がもう…ダメ、危険、狐通り越して別のものに変化しそうだ。
思い出し発情しそうな状態だが、子どものような寝顔を見て、熱を鎮める。
千歳、我のことは他の神仙とは違う、と言っておったが。
でないと困る!
あんなこと、我以外の男とさせて堪るか! 万が一、そんなことになったら、神格投げ捨てて、大妖魔になる自信がある。
こうなったら、遠慮などせず、どんどん千歳を口説き落としていこう。
可愛いと言うと、拗ねたように否定しつつも、どことなく嬉しそうだったし。
実際、千歳は可愛い。
顔も性格も仕草も何もかもが可愛い。
自分が本当に食料扱いだと思い込んでた勘違いっぷりも可愛い! …佐保、ありがとう…ありがとう…お主の助言がなかったら、我はきっと絶句したまま黙り込んでおった。そしてきっと千歳の誤解は加速してた。
ため息をつき、鼻先でやわらかい頰をつついてみる。
「むー…?」
基本的に眠りが浅いようで、少し前までは我の身じろぎで目を覚ますくらいだった。ここ二、三日で、やっと寝ている間の身体の強張りが取れてきたように思う。
今も顔を顰めはするが、目覚めはしない。
我の存在に慣れてきたのか、多少は信頼してくれるようになっているのか…とりあえず、毛皮の手入れをしっかりしよう。毛並みがよくなれば、千歳は確実に喜ぶ。
あと、朝も甘やかしてみるか。
佐保も、見えることが大事だと言うておったしな。確かに、千歳にとって我は「男」というより、「毛皮」なのだろうし…あ、なんか目から水が落ちてきおった。我、獣なのに。
いろいろ複雑な感情を抱えつつ、ほんのりと香る花と、千歳の甘い匂いが混じった空気に包まれて目を閉じた。
明けて朝。
人型で抱きしめた千歳は、いくらか顔が赤くなっておった。
うむ。
一歩前進、かもしれぬ。