恋のから騒ぎ
昔々、小さな古い国がお隣の大きな新しい国に攻め込まれました。
小さな国は魔法使いたちの国で、魔法使いがひとりもいない大きな国は、自分たちの国にも魔法使いが欲しかったのです。
大きな国の王様は、小さな国の女王様に言いました。
「お前たちの国を俺たちの国の一部にする。そうすれば、俺たちの国も魔法使いの国だ」
小さな国の女王様は、呆れてため息をつきました。
「魔法使いは、魔法が使えない王になんて従わない。だって、自分より弱い王なんていらないもの」
女王様の白い指がパチンと鳴ると、王様の大きな剣はまっぷたつ。
女王様の召使いたちがパチンと手を鳴らすと、王様の兵隊たちはみんなネズミに早変わり。
「わかったなら、さっさと帰りなさい」
壊れた剣を握りしめて立ち尽くす王様を、ネズミになってしまった兵隊たちは心配そうに見つめました。彼らは知っていたのです。
自分たちの王様が、ちょっと変わった趣味であることを。
案の定。
「結婚していただきたい!」
王様は剣を放り出し、女王様の前に膝をついたではありませんか。
「…は?」
ぽかんとする女王様と召使いたちに、ネズミたちは小さな頭を抱えました。
やっぱりなー!
王様、強くてカッコいい女のひと、大好きだもんなー!
ついでにちょっとマゾっけあるもんねー!
ネズミ団子になって動かない兵隊たちの様子から、何となく、本当に何となく、うっすら事情を察した女王様は、深々とため息をつきました。
「私より弱い夫なんてお断り。魔法が使えるようになってから出直しなさい」
そう言って、女王様が腕を一振りすると、王様とネズミは大きな竜巻に巻き込まれて、自分たちの国へと飛ばされてしまいました。
大きな国の王様が小さな国の女王様に敵わなかったことは、あっという間に他の国にも伝わり、魔法使いたちの国に近づくのはやめたほうがいいと噂されました。
それまでにも、魔法使いたちの不思議な力は、怖がられたり、嫌われたりしていたのです。
大きな国の王様も、ネズミになった兵隊たちとお城に閉じこもってしまい、姿を見せなくなりました。
きっと、よっぽど魔法使いの女王様が怖かったのだろうと、人々はヒソヒソコソコソ話し合い、ちょっと残念な趣味嗜好だけど、フラれてしまった王様を可哀想に思っていたのです。
ところが、ある日のこと。
王様は、ネズミの兵隊たちを連れて、意気揚々と人々の前に姿を現しました。
そして、驚くべきことを言ったのです。
「魔法が使えるようになった!」
王様がパンパンと手を叩くと、小さな小さな花が現れました。
それは本当に小さくて、人々は一生懸命目を細めないと見えないくらい小さかったのです。
ネズミの兵隊が王様の手から花をくわえ、人々に見せるようにチョロチョロと動き回ります。
小さな小さなそれは、間違いなく花でした。
王様は、高らかに宣言します。
「これで、彼女に求婚する資格を得た! 行ってくる!」
人々は、何となく、そうじゃないと思いましたが、王様があまりにも嬉しそうだったので、何も言わずに見送りました。
数日後、王様はまたもや竜巻でぐるぐる回転しながら戻ってきました。お伴したネズミの兵隊たちも、チューチューぐるぐる一緒です。
でも、王様はめげなかったのです。
魔法を練習して、少しずつ、少しずつ、花を大きくしていきました。
ひとつではなく、ふたつ、ふたつからみっつ、と数も増やしていきました。
少し魔法が上達しては、「行ってくる!」とネズミの兵隊たちと出かけ、竜巻でチューチューぐるぐる帰ってきました。
いつしか王様は、「花売りの王様」と呼ばれるようになりました。
売っていたわけではないのですが、なぜかそう呼ばれるようになっていたのです。
そうして、王様が歩いた後に、色とりどりの花が足跡のように残るようになったころ。
大きな国の王様と、小さな国の女王様の結婚式が執り行われました。
色も大きさも様々な花が、女王様のドレスと髪を飾り、辺りは甘い花の匂いが満ちていました。
ふたつの国は、ひとつの国になることはなく、けれども、魔法使いと普通の人々が自由に行き来することになったのです。
そして、大きな国の王様と小さな国の女王様は、ずっと仲良く暮らしました。めでたし、めでた…
「めでたくないよねえ」
鮮やかに彩色された絵本を閉じ、ミネルヴァは深いため息をついた。
革の表紙は様々な顔料と宝石で煌びやかに輝き、一目で庶民の持ち物ではないことがわかる。
実際のところ、ミネルヴァは一国の王女だった。
魔術師の国として知られるブークモール王国の第三王女であり、王室広報には国立薬学院の主任研究員兼医師(二十四歳・未婚)と記載されている。働く王女様である。
しかし、本日は七日に一度の休息日なので、王宮の自室でダラダラしていた。王女様だってダラけたい日があるのだ。
とはいえ、寝間着のまま、ベッドで惰眠を貪ることなど許されない。
国民の模範たれ、という一文が王族の有り様を定めた典範にあるためか、日が昇ると侍女たちに容赦なく叩き起こされ、身支度をととのえられる。
そして朝食を済ませ、居間のカウチで伸びていたのだが。
ドアベルの音が響き、侍女が入ってきた。
だらしない主人の姿に眉を顰めつつも、「お客様です」と告げる。
「お客様」の心当たりがありすぎるミネルヴァは、クッションを抱えたまま、唸り声を上げた。
「…いないって言ってー」
「言えるわけありませんでしょう。いえ、言ってもいいですけども、言った瞬間、ここまで爆走してきて扉吹っ飛ばしますよ」
遠慮のかけらもない言葉だが、否定できるところもなければ、主人に対して不敬だと怒れる立場でもないことは、ミネルヴァ自身が一番よくわかっているだけに、頭が痛い。
しかし、せめてもの反論を、と試みた結果。
「スサンナ…本当のことだけど、もーちょっとホラ、なんていうか」
やっぱり何も言えなかった。
第三王女の乳姉妹兼現在の侍女頭は、きちんとドアが閉まっていることを確認し、ツカツカと歩み寄ると、ミネルヴァの上体を強引に引き起こした。
「うあっ」
「腐ってても王女殿下が奇声上げない。ほら、着替えますよ」
「腐ってないー」
「いいからシャンとなさい」
三つ歳上のスサンナは、実質姉であり、母である。
実母と死別したとか、実母が娘に冷淡だとか、実母が死んで継母がいるとか、複雑な事情はない。
単純に、女王である母は公人として当たり前に忙しく、母親が娘を構えないためにきちんと教育と養育に必要な人員が配置され、配置されたスサンナが一般基準よりやや過保護で構いたがりであり、ついでにミネルヴァが典型的な末っ子気質だったというだけのことである。
ブークモールは、古来より王室でも親が子を直に育てる慣例が残る国だが、君主がワーカホリックであれば、当然乳母も教育係も利用する。ガンガン使って、しっかりガッツリ子どもを育てる。
何しろ、魔術師の国なので、初期教育ができないと長じて大惨事になりやすい。火炎放射器を持って生まれた幼子に、その危険性や使い方、武器使用に関する道徳、倫理を叩き込まなければどうなるか、と考えればわかりやすい、かもしれない。
衣装室で室内着を引っぺがされて、コルセットでウェストを締め上げられたところに、スサンナ厳選のドレスを着付けられ、化粧室に連行された。
髪を結い、うっすらと化粧をして、完成。
王族の女性としては、おかしなくらいの短時間で準備を済ませ、ふたり揃って盛大に息を吐き出した。
スサンナは満足の鼻息であり、ミネルヴァは脱力のため息である。
「こんなに着飾らなくても」
青い絹の繻子織のドレスと、華奢な靴。
襟元を飾る繊細な織り目のレースは、魔術で量産されるものではなく、西の国の職人の手によるものだ。
ほっそりしたシルエットのドレスと、複雑に編み込まれた結い髪は、控えめな容貌のミネルヴァを楚々とした貴婦人に見せている。
「どんなに派手な化粧しても、孔雀みたいなドレス着ても、地味すぎて目立たない顔なのに…」
本人は、顔の造りにこだわらないタチだが、それだけに無駄に装わずとも、と思っている。だが、何気に主人命のスサンナは、とんでもないと拳を握った。
「何仰るんですか。普段は仕事着か室内着ばっかりなんですから、こんなときくらい、おしゃれしないと。私も魔法、忘れそうですし」
「相変わらずの妙技でございました…」
主人の言葉に、スサンナは誇らしげに胸を張る。
魔術師と言っても、当然得意不得意はあり、できることもあればできないこともある。
スサンナは、国でも一、二を争うほど、「細かいことが得意」な魔術師だ。
コルセットを絶妙な力加減で締めたり、ドレスの後ろを針で縫い閉じたり。
細い筆で化粧を施しながら、長い髪を複雑に結い上げたり。
何なら、髪一本を筆にして、麦粒に絵が描ける。
それを、手の一振りでやってのけてしまう。
「さ、お部屋でお待ちくださいな」
促されて居間に戻ると、きちんと片付けられ、いつでも「お客様」を迎えられる状態になっていた。
スサンナがお茶の準備に、他の侍女が客人を迎えに出て行くと、部屋は一度に静まり返る。
手持ち無沙汰になって、ミネルヴァはカウチのサイドテーブルに移動されていた例の絵本を手にして、腰を落ち着けた。
宝石を砕いた顔料で描かれた装飾文字が、「花の王様と風の女王様」と綴る。
ブークモールと隣国フラクトゥーアが事実上の共生関係になったエピソードを題材にした、おとぎ話だ。
表紙を開いた一ページ目には、寄り添う王と女王の絵姿と、それをぐるりと取り囲む花々。
王は輝く金の髪と翠の瞳、女王は闇夜のような黒髪と紺碧の瞳。
どちらも両国民を象徴する色彩で、かくいうミネルヴァの髪も黒く、双眸は極上のサファイアの色である。
このおとぎ話から数十代を経た現在、魔術師と魔力を持たない人々が交わり続けたことで、古の女王のような強力な魔力を持つ魔術師の数は減った。
それでも、ブークモールは相も変わらず、魔術とそれに関わる諸産業で栄えている。
諸外国が、ブークモールと婚姻関係を結びたがるのは、そのためだ。
自国に根付いた魔術師が欲しい。
だって、魔術って便利なんだもん!
軍事利用だの、対人兵器開発だの、きな臭いことに魔術を利用したがる向きがあることは、ブークモール王家もしっかり把握しているし、魔術師がそういった国々へ流出することを警戒してもいる。そのための対策も、しっかりしてある。伊達に世界最古の国家とか自称しているわけではない。
それでも、他国から持ち込まれる結婚話は後を絶たない。
よほどの大国の系譜か、絶世の美姫とやらでもなければ、王族といえど、立て続けに縁談が舞い込むことなど早々ないのだが、ブークモールの王族は例外だと言ってもいい。
もちろん、ミネルヴァも引く手数多である。
しがらみなさそうな第三王女だし。
薬学の博士で、医療関係得意だし。
ついでに、顔立ちはともかく、「風の女王」の再来とか言われちゃう容姿で、魔力値高そうって期待されちゃってるし。
だが、彼女がそういった縁談話に頷いたことはない。
周りも、無理強いしようともしない。
第一には、魔術師の気性だ。
好奇心旺盛で、自由気ままで、楽しいことが大好きで。そのくせ、研究肌で凝り性。
ミネルヴァの両親も、兄弟たちも、王族としての分別は持ち合わせているが、やはり他国の王族に比べると、自由奔放に仕事や趣味に没頭して、楽しく生きている。
国民も、無理に結婚なんてしなくていいよー、うちの王女様、可愛いしー、本人が結婚したいなら別だけどーという緩さ。
ミネルヴァ自身、薬学院で外傷薬の研究をしながら、外科医もしていて、やりがいのある今の仕事がとても好きだ。好きすぎて、一部ではマッドサイエンティスト扱いされているが、タダの医療オタクなだけなので誤解である。
ともかく、仕事も順調だし、第三王女で末っ子という気楽な立場は居心地がいい。
だが、それ以上の理由が、もうひとつ。
ここしばらく、頭を悩ませている問題を思い出し、絵本を閉じて頭を抱えた。
しかも、その「問題」は、恐らくすぐそばまで迫っている。
ドアベルの音に顔を上げると、茶器を携えて戻ってきたスサンナがドアを開けるところだった。
澄ました顔の侍女が静々と頭を下げ、「ミネルヴァ様、お客様をお連れいたしました」と言うのに、「失礼」という男の声が被り、ドアが開け放された。
見るからに仕立てのいいフロックコート姿の男が、輝くような笑顔で入ってきた。
いや、輝いて見えるのは、彼の髪が実際に輝いているからだな、とミネルヴァはいつも思うのだが。
本物と見紛うほどのプラチナブロンドと、時を経た琥珀色の瞳を持つ男の名をアルフレッド・フリードリヒ・フラクトゥーアという。フラクトゥーアの第二王子であり、近隣諸国にはいろいろな意味で名の知れた男である。
とりあえず、顔がいい。顔が良すぎて、諸国の姫君たちから引かれるあまり、縁談がさっぱり来ないというくらい、顔がいい。
姫君の親たちからも、あれだけ顔がいいと、余計な火種になりそうだし、娘が不幸になりそうだし、と倦厭されるほど、顔がいい。
ミネルヴァも、初めて会ったときは、目が潰れるほどの美形とはこういう顔か、と納得するとともに、ちょっとくどいから仮面とかつけて欲しいな、と思ったくらいである。
ともかく、アルフレッドはカウチに座るミネルヴァの前まで来ると、さっと片膝をついて頭を垂れた。
初めてされたときは度肝を抜かれたものだが、今ではミネルヴァも侍女たちも、すっかり慣れてしまって驚くことはない。顔が見えなくなって、ちょうどいい、と思ったりもする。
「お久しゅう、我が愛しの叡智の女神。本日も貴女様の愛を乞いに哀れな」
「アルフレッド様、どうぞお立ちになって」
毎度毎度、背筋が寒くなる口上を垂れたがるのもこの男の習性で、失礼であるとは承知の上で、ミネルヴァは遮る。でないと、控えている百戦錬磨の侍女たちですら、むず痒さにモジモジしてしまうからだ。
辛抱できず、他国の王子に沈黙の魔術でもぶっ放しては、国際問題になる。
そして、当のアルフレッドも、それを楽しんでいた。控えめなミネルヴァが、そんな態度を取るのは、自分に対してだけだと知っているからだ。
素直に立ち上がったアルフレッドに座るよう勧めると、彼は極自然に少し距離を取って、ミネルヴァの隣に腰を下ろした。
向かいに揃いの椅子があるのに。
貴婦人と横並びに座れる男は、夫か息子か兄弟か幼い子どもだけ、と相場が決まっているが、スサンナも、他の侍女たちも咎めることはない。
これは、彼が自身で勝ち取ったミネルヴァの信頼の証と言っていい場所だからだ。
フラクトゥーアの王子が、ブークモールの王女に求婚し始めて、既に二年。
これが、周囲がミネルヴァに結婚を急かさない第二の理由だ。
アルフレッドが、正式な使者を立ててブークモールの女王に王女との結婚を申し入れたとき、ミネルヴァの家族はみんな、思った。
あーあ、また魔術師狙いの結婚かあ、と。
それまでにも、地味でおとなしいと評判の第三王女ならチョロいだろうと、舐めくさった態度で肖像画を送りつけてきた馬鹿たちがいたのだ。
フラクトゥーアとは友好的な関係が維持できているし、一応縁戚関係でもあるが、他の目立つ姉妹ではなく、わざわざミネルヴァを指名してきたところがブークモールの癇に障った。
ミネルヴァも、引く手数多と言えば聞こえはいいが、結局都合のいい相手としか見られていないことにうんざりしていたから、肖像画を見ることもなく送り返したのだ。
ところが、アルフレッドは思いも寄らない行動に出た。
兵もつけず、武器も持たず、単身ブークモールにやってきて、謁見の間で、女王に土下座した。
王子が土下座。
この世界、貴人への礼は片膝をつき、神の御前では両膝をつくが、土下座は女王も、居並ぶ大臣たちも、見たことがなかったため、非常に困惑した。
誰もが感じたこともない微妙な空気の中、アルフレッドはミネルヴァと結婚させて欲しいと懇願したのだ。
敵意もない、害意もなさそう、なんかこのひと、本当にうちの王女に惚れてんじゃないの?
大臣たちは、コレ、どうしようと顔に書き、女王を見つめた。
判断を丸投げされた女王は、熟考したのち、こう告げた。
「王女に求婚することを許しましょう。ただし、彼女が頷かなければ、諦めなさい」
当然、無理強いなど言語道断、倫理道徳公衆風俗に反せず、常に紳士的な振る舞いであることが絶対最低条件、と釘を刺して。
「ところで、アルフレッド殿下のその…拝礼? は少々見慣れないものですね」
「遥か東国を旅していた客人に教わったものですので、こちらでは馴染みがないかと。ドゲザと申しまして、地に額づくことで絶対服従の意思と最大の敬意を表すものだそうです。ブークモールの女王陛下に結婚のお願いに参ると言ったら、ドゲザが最適だろうと教えを受けました」
「なるほど」
日出づる処のどこかから、誤解にもほどがあると大抗議を受けそうな会話は、フラクトゥーアの第二王子の土下座とともに、永遠に封印された。
それからというもの、アルフレッドは頻繁にミネルヴァを訪ねるようになった。
母親から、「これからお隣の息子が、あなたに求婚に来るから。どうするかは、好きになさい」と、そこらへんの町娘でもなかなか言われないようなことを告げられ、不可解さに首をかしげていられたのも、最初のうちだけだった。
アルフレッドは、三日に一度は来た。あんまり頻繁に来るので、平日は勘弁してくれと言ったら、休息日に来るようになった。祝祭日にも必ず来る。
あまりのことに、フラクトゥーアでは問題になっていないのかと問い合わせたら、顔のせいで縁談が決まらない王子を持て余していたらしく、是非よろしくと言われてしまった。まあ、魔術師と結婚してくれたら万々歳くらいは考えているだろうが。
微笑んで見つめてくるアルフレッドを前に、いつもミネルヴァはどうしたものか、と考えてしまう。
散々断ったのだ。
結婚なんてまだまだ考えていないし、しないかもしれない。
医術と薬学の研究は、ミネルヴァのライフワークと言ってもいいもので、一生手放すつもりもないから、一般的な王族の奥方はできないし。
だが、アルフレッドも手強かった。
第二王子だし、他の兄弟も多いし、自分ひとりくらいブークモールに婿入りしたって構わない。
ミネルヴァがしたい研究を好きなだけできるように、サポートしていく。
だから、好きか嫌いか、夫婦になれるかなれないか、それだけを基準に考えてほしい。
今すぐ答えが出せないなら、好きになってもらえるように努力する。
まずは、友人から始めるのはどうですか、と。
そして、現在に至る。
スサンナが淹れたお茶を勧め、他愛もない話に花を咲かせる。
アルフレッドは、今はブークモールの市街地にある学院で体術と経営学の教師をしていて、会うたびに学院の生徒や教師たちのおもしろネタを披露する。フラクトゥーアから通うのが大変だからと、いつの間にか移住してきていたのだ。もちろん、女王の許可を得て滞在し、仕事を得ている。
王子が労働!? それも貴族の子弟向けとはいえ、学校教師!? とブークモールの面々は腰を抜かしたが、本人曰く、「国を離れている以上、王族としての責務を果たせていないのに、国の金で食わせてもらうわけにはいかない」。
ミネルヴァも、聞いたときは驚いたが、アルフレッドが聞かせてくれる学校の話はおもしろく、興味深い。
スサンナたち侍女は、「求婚のために移住って、圧がすごい」と思っているが、何も言わない。
「で、その生徒がくしゃみをした途端に、黒板が割れてしまって」
「あら。小さい子だと、魔力の暴発は珍しくはないんですけど、お怪我とかされませんでした?」
「ええ。でも、それに驚いた別の生徒が、インク壺をぶちまけました」
「まあ」
ミネルヴァが笑うのを、アルフレッドは愛おしげに見つめる。
その視線に気づいて、ミネルヴァが困ったような、恥じらうような素振りで目を逸らす。
それをまた、アルフレッドが顔面に「可愛い」とデカデカと書いて見つめるのだ。
ふたりが醸し出す空気は、死ぬほど甘ったるい。
空気に徹している侍女たちが、むず痒さに暴れたくなるくらい、痒い。
あーもう、結婚しろよ! と内心思っている。
思っているが、ミネルヴァが悩んでいることも知っているので、沈黙を守っている。デキる侍女は辛いのだ。
侍女たちがモダモダしていることなんぞ、つゆ知らず、ミネルヴァは寄ってもいないドレスのシワを伸ばした。
アルフレッドはとても紳士的だ。
初めの勢いと、二年もの間、通い続けるという執念ぶ…いや、粘ちゃ…根気強さからは意外すぎるほどに。
向かい合った椅子でぎこちなく言葉を交わしていたのは、半年ほどだっただろうか。
求婚相手なんぞと何を話せばいいのかわからず、まともな会話になんてなっていなかっただろうに、アルフレッドはミネルヴァが何か言えば、嬉しそうに頷いた。
少しずつ、気を許せるようになり、魔術師と結婚したいだけなのでは、と疑う気持ちも薄れ、同じカウチに座るほどの距離で話せるようになったのは、最近のことだ。
今のような沈黙が降りても、アルフレッドが決して苛立たず、責めるような気配を見せないのだと落ち着いていられる。
なのに、近ごろはソワソワと落ち着かなくもある。
「あの、アルフレッド様」
「なんでしょう」
ミネルヴァが彼の名を呼ぶと、嬉しそうに微笑んで、顔を覗き込む。
眩い美形の微笑は、物理的に心臓に悪い。
心拍数を抑えようと、咄嗟に頭の中でハーブの名を唱え始める。
ベラドンナ、メラレウカ、コルチカム…
「ミネルヴァ殿下?」
「殿下、はおやめください、と」
アルフレッドは礼儀正しく敬称を使うが、ブークモールの王宮ではあまり使われないこともあって、慣れていないのだ。
初めのころにそう説明してあるのに、彼は時折、ミネルヴァを殿下と呼んで戸惑わせる。
「ああ、申し訳ない。では、ミネルヴァ様……どうかなさいましたか」
「え?」
優しく尋ねられて、首をかしげる。
アルフレッドは、「何か仰りたいのではありませんか」と続けた。
「ミネルヴァ様は、何か考えていらっしゃるときは、少し首をかしげて視線を下に向けられる」
「そう、ですか?」
「はい」
はっきりと頷かれて、ミネルヴァは少し前から自身の胸の奥に引っかかっているものを見極めるために、考え込んだ。
頭の片隅では、ハーブの羅列が続いている。
ワームウッド、ジギタリス、セントジョーンズワート…
「殿下、と呼ばれるのは、慣れてなくて落ち着かないのですけれど…」
「はい」
「…アルフレッド様に、ミネルヴァ様、と呼ばれるのは……」
ネトル、トリカブト、タンジー、ヘンルーダ…ああ、どうして毒草ばかりなんだろう。
「なんだか、」
「なんだか?」
「悲しい…寂しい、気がして」
途端に、アルフレッドの目の色が、キュッと濃くなった。
空気に徹しようと必死の努力を続けていた侍女たちは、心中、天を仰ぐ。
ミネルヴァ様―! ちょっと待ってー!
「私が、ミネルヴァ様と呼ぶのが、お嫌ですか?」
アルフレッドの声には、期待がモリモリ込められていた。
「はい」
「では、なんとお呼びしましょう」
「なんと…」
王族の呼び方は、存外バリエーションに乏しい。
名前に敬称をつけるか、様付けが基本だ。
ブークモールでは、王位を継ぐ子以外は希望すれば成人したときや結婚したときに大公位を与えられるから、その爵位名で呼ばれることもあるが、ミネルヴァは辞退している。
それに、アルフレッドにそんなもので呼ばれたくはない、と思う。
考えた末、ミネルヴァはこれしかない、と結論を出した。
「ミーネと、呼んでいただけたら」
「ミーネ、様」
「私の愛称です。あの、アルフレッド様のお気に障らないなら、様も、いりません。ずっと、気になっていたんです。王族同士ですし、歳上の殿方ですし」
元来、自由で階級制度に緩いのが魔術師であり、ブークモールの王室も、数を増やした魔術師たちが国という形を成すために必要であるから作られたものだった。貴族制度もあるが、やはり集団を統率し、飢えさせないためのものであるという認識が強い。
だから、ミネルヴァにとって、敬称というのは一線を引かれているように感じるものなのだ。侍女や侍従たちに呼ばれることは、さすがに慣れてはいるけれど。
しかし、他国では無礼だとか、下品だとか言われることも知っている。
アルフレッドはどうだろうか、と端麗にもほどがある顔を見つめると、なぜか数回咳払いをした。
「では……ミーネ」
「はい」
あ、なんだか嬉しい、と顔がほころぶ。
瞬間、白皙の面が赤く染まった。
「アルフレッド様? お顔が」
あまりの変化に驚くミネルヴァに、アルフレッドは必死でなんでもないと顔を背けた。
「なんでもありません。少々動揺しただけで」
「動揺? え、どうして」
「いえ、たいしたことでは…たいしたことなんですが、瑣末なことです」
「たいした瑣末なこと?」
言葉が矛盾している、と首をかしげる。
ちなみに、ブークモール国民とフラクトゥーア国民の意思疎通には、フラクトゥーアの公用語であるダート語が使われている。ブークモールには公用語のノール語があるが、発音も文法も難解すぎて、他言語母語話者が習得することは困難だからだ。実際のところは、魔術言語であるために、文法はともかく、魔力を持たない人間では発音しづらいだけなのだが。
ミネルヴァも、生まれたときからダート語の教育を受けて使用しているため、ほぼバイリンガルと言っていい状態なのだが、アルフレッドの言いたいことがよくわからない。
だが、アルフレッドは本当に気にしないでくれと言葉を重ねた。
えー、わからないことがわからないままなのは、気持ち悪いんだけどなー、研究者だしー、と内心不満に思うのがわかるのか、アルフレッドは「ところで」と強引に話題を切り替えにかかる。
「私だけ、愛称を使うのも落ち着かないのですが」
「そう、ですか?」
「ええ。ですから、私のことはぜひ、アルとお呼びください」
「よろしいのですか?」
歳上の男性を愛称で呼ぶことは、兄弟や親戚でもない限り、ブークモールの王室でもしない。
二年も求婚者志願の友人つき合いをしているとはいえ、躊躇いを覚えなくもなかったが、期待に満ちた目で見つめてくる美形の圧に負け、ミネルヴァはそっとその名を口にした。
「アル、様」
「っ…はい」
「…あの、お顔が」
「問題ありません。少し暑いだけですので」
「大変。スサンナ、風をお願い」
主人の言葉に、「暑い」じゃなくて、「熱い」だよねーと思っていることなど微塵も感じさせず、侍女頭は澄ました顔で、「かしこまりました」と一礼する。
スサンナが腕を振ると、窓が開き、外の涼やかな空気が流れ込んできた。
ブークモールは、気候のいい秋なのだ。
落ち葉の香りを含んだ微風が頬を撫でていく。
「冷たいものでも、召し上がります?」
「いえ、温かいお茶で」
それならばと、ミネルヴァはちょうど空になったカップに、手ずから茶を注いだ。
貴婦人がティポットを持つのは、親しい間柄の人間がいるときだけ。
相変わらず微笑んで…スサンナたちには顔面崩壊しているように見えている…、ポットを持つ白い手を見つめていたアルフレッドだが、ふと気づいたように呟いた。
「そういえば、ミーネが魔法を使っているのを見たことがありませんね」
つい、手が止まった。
だが、いつか言われるだろうと思っていたことでもあったので、素知らぬ顔で「ええ」と頷く。
「侍女たちは魔法を使うほうが効率がいいですから、日常的に使いますけれど。王族や貴族、特に女性は魔術を使わずに生活することが豊かさの象徴だと考えるんです」
「なるほど。そういえば、工芸品や宝飾品も、ブークモールでは手作業のみで作られたもののほうが高価なことが多いですね」
「この国では、魔術を使わないものほど価値がある、という考え方もありますから。もちろん、魔術でしかできないこともありますし、そういったものには相応の対価が支払われて然るべきです。手作業にせよ、魔術にせよ、他のものでは代替が利かないことや、その実現にかかった時間や労力を評価しなければ、ひとも産業も育ちませんわ」
「魔術でしかできないことというのは、例えば?」
「そうですねえ、先日…」
傍目には色気のない会話だが、ミネルヴァは話が逸れたことにひっそりと胸を撫で下ろした。
それに、アルフレッドは博識で、専門的な話もおもしろい。
絵本を眺めていたときの憂鬱さが顔を覗かせようとするのを、無理やり押さえ込み、時折会話に入り込む自身の愛称のくすぐったさを楽しむことにした。
昼食を共にしたあと、王宮の庭園を散策し、アルフレッドは名残惜しげに去って行った。
この二年の間に出来上がった休息日の習慣だ。
王宮内の図書館に行くこともあれば、美術品が並ぶギャラリーを歩くこともあるが、彼はいつでもスマートにミネルヴァをエスコートし、敬意を持って接している。
顔面の暴力と言ってもいいくらいの容貌だから、浮ついた男なのでは、と思っていた過去の己を薬草漬けにして、悔い改めさせたい。
フラクトゥーアでは騎士団に所属していたそうで、背も高く、体格もよく、闊達な性格からしても、きっと優秀な騎士で、皆から慕われていたのだろうと思う。
かと思えば、読書好きで学者肌なところもあり、知らないことには好奇心を露わにして、ミネルヴァの話に耳を傾けたりもする。
たぶん、理想の結婚相手、というやつなのだろう、とミネルヴァは深いため息をついた。
「苦しいですか?」
スサンナが、手を振り、魔術で背中の糸を抜いていく。
開いたドレスの背面部から冷たい空気が入ってくるのに、さっきとは別の息をついて、ミネルヴァは首を振った。
「大丈夫。コルセットは、早く外したいけど」
「ちょっとお待ちくださいね」
両手を振って、器用に魔術を使うスサンナを眺めると、またため息が出る。
いつになく、憂鬱そうな主人の様子に、スサンナは室内着ではなく、寛げるガウンを着せかけた。
薄手のネルは、軽いが暖かい。
やはり魔術で編み込んでいた髪を解き、スサンナが手を一振りすると、使っていたピンや髪飾りが箱の中に吸い込まれていった。
衣装室のカウチに座り、ぼんやりしているミネルヴァに歩み寄る。
長く艶やかな髪に手で鼈甲の櫛を入れ、スサンナは主人に話しかけた。
「それで、まだお悩みですか」
「…うん」
「アルフレッド様、悪くないと思いますけれども」
「悪くないどころか、すごくいいと思う」
すごくいいどころではなく、完全にミネルヴァはフラクトゥーアの王子に惹かれていると侍女たちは考えているのだが、そこはとりあえず言わないでおく。
「なら、恋人としておつき合いなさってみても、よろしいのでは?」
何しろ、あの王子は、本気でミネルヴァにベタ惚れだ。
侍女の中には、悪心や嘘に敏感な者がいるが、男の嘘は間違いなく見抜くと豪語する者ですら、あれは完全に骨抜きになっていると断言した。
尤も、侍女たちも、ミネルヴァ自身も、いったいどこでアルフレッドに見初められたのか、知らないのだが。
しかし、ミネルヴァは首を振った。
「無理」
「でも、いいと思われてるんでしょう? アルフレッド様も、見るからにミネルヴァ様をお慕いされてるんですし」
「だけど…あれ、知られちゃったら、嫌がられると思う」
唇を噛み、悲痛に眉を寄せて俯いてしまう。
豊かな髪をひと房ずつ、梳き通しながら、スサンナはうーん、と唸った。
ミネルヴァの言う「あれ」は、知らない人間が見れば、多少驚きはするとは思うが、そこまで恋愛や結婚の障害になるだろうか、と首を捻る。
「そんなに、ダメですかねえ」
「ダメだと思う」
「結構、というか、相当可愛らしいと思うんですけど」
「それはスサンナが魔術師だからっ」
「えー。言っちゃあなんですけど、魔術師から見ても、ミネルヴァ様のあれ、かなり変わってますよ」
「だからっ、魔術師が見ても爆笑するのに、普通のひとが見たらドン引きするに決まってるでしょ!? 魔術を使うたびに、猫耳としっぽが生えるなんて!!!」
ガバッとスサンナを振り仰いだミネルヴァは、涙目だった。
言っていることは妙だが、表情はこれ以上ないほど、シリアスである。
ブークモールの第三王女の秘密…いや、実際はわりとみんな知っている…、それは魔術を使うたびになぜか頭頂部と尾骶骨辺りから生えてくる猫の形状の耳としっぽ。
普通は生えない。生えるわけがない。
医者も、どうして生えるのかよくわからないと断言した。
とりあえず、耳としっぽが生えるだけで、他に影響もないので経過観察である。
ミネルヴァは、洟を啜りながら、力説する。
「アルフレッド様がどーして私なんかに求婚なさるのか知らないけど! あんなもんが生える女だって知ったら、絶対気味悪るがられるか、爆笑されるっっ」
爆笑くらいならいいじゃん、と思ってはいけない。
幼少期から、魔術を使っては耳が生え、しっぽが伸び、散々笑われてきたのだ。特に、兄の学友たちにからかわれていたため、男性への苦手意識にも多少影響していたりする。
職場では、常に防塵帽を被っているから目立たないが、普通の格好だとアウトだ。しっぽも、今日のようなスリムなドレスだとラインでバレる。
「んー、なら、魔術使わないで頑張るとか」
「結婚したらさすがに魔術使わないで生活とか、無理でしょ。今日はああ言って誤魔化したけど、お母様も姉様も、ガンガン魔術使ってるもんっ」
アルフレッドに話したことは嘘ではないが、女王が使っているのに、王女が頑なに使わなければ、不自然に思っても不思議ではない。
「もう二年もお待たせしてるのに…っ、もういいやって言われちゃったら、どうしよう〜〜〜〜〜」
そう思う時点で、完全に落ちているわけだが、そこは本人にとってはあまり重要ではない。
最初からあまりの顔面偏差値に驚くあまり、心拍数は上がっていたし、それが別のものに起因する動悸になったところで、さして重要ではない……実は相当重要なわけだが、ミネルヴァ本人は猫耳としっぽが最重要懸案だと信じて疑わない。
近ごろ、アルフレッドに会いたくないとゴネるのも、うっかり彼の前で魔術を使ってしまったらどうしよう、という不安に苛まれているからだ。
「うう…『風の女王』みたいに、魔力強いだけでカッコよければよかったのに…」
「ミネルヴァ様、お医者様のときは冷酷無比すぎて、『氷の王女様』って評判じゃないですか」
「それはカッコいいんじゃない〜〜」
クッションを抱えて亀のように丸まろうとするのを、肩を押さえて防ぎつつ、スサンナはため息をつく。
ここはなんとか宥めて、一発元気にしておかないと、明日の朝まで落ち込み続ける。仕事に行きたくないとは絶対に言わない王女だが、身支度を整えるのを億劫がられては、スサンナが面倒くさい。
「でも、ほら、今日はちょっと進展なさったじゃないですか」
「進展…?」
何のことだ、と首をかしげる王女に、やっぱ自覚なかったのかと内心ため息をつく。
「お名前ですよ。愛称で呼び合えるようなったじゃないですか」
「あー…あれって、進展?」
「進展です」
ミネルヴァはあくまでブークモールの感覚でああ言っただけなのだろうが、一般的に上流階級の女性が家族ではない男性に愛称で呼んでくれ、と言えば、愛の告白の十歩手前くらいの親愛の情の表れと取られる。
互いに愛称を使うとなれば、傍目にはわりと…まあ、たぶんそこそこ仲が良いと看做されるだろう。
実際、今日のフラクトゥーアの王子の挙動は、気の毒なほど浮かれていた。
普通の男女なら、三月もあれば愛称で呼び合うだろうが、王族同士でミネルヴァは恋愛経験値ゼロ、ついでに魔術師狙いではないかと警戒しまくっていたのだ。
「フラクトゥーアでは、余程親しい相手でもない限り、愛称を呼び合うなんてしないと言いますし」
「あ、そうか」
時間差にもほどがある今更感だが、ミネルヴァは頰を染めて黙り込んだ。
「え、じゃああれってはしたなかったんじゃ…や、でもアル様も…え、アル、様……」と、もごもご独り言ちては、悶え始める。
いくらなんでも純粋培養しすぎたか、と少々悔やみ、それにしても、とスサンナはひっそりと首をかしげた。
顔が良すぎて難ありで、婚期を逃していたとは言うけれど。
あんな男と以前出会っていれば、さすがにミネルヴァも、侍女の自分も気づくはずなのに。
あんなにベタ惚れになるような出会いが、いったいどこにあったというのだろう、と。
ブークモール王宮を辞したアルフレッドは、馬車で市街地に構えている自身の屋敷に戻る。
ブークモールの馬車は、石畳の上を走っているとは思えない静かさだが、これは魔術によるものだという。
車体と車輪に魔術を組み込み、軽量と消音効果を施すことで、乗る人間と馬車を引く馬への負担が相当軽減される。このおかげで、長距離の移動が可能になり、物流が発展した。現在、科学と魔力を組み合わせることで、馬がなくとも走れる馬車…馬が引かないのに馬車と言っていいものか謎だが…の開発も進んでいる。
ブークモールの魔術師たちは、科学との共存を厭うことはせず、むしろ積極的に研究し、魔術との相互補完を目指すものが多数派だ。そのおかげで、この国の発展は、他国の水準から大きくかけ離れており、それがまた諸外国の羨望の的となっている。
それでも、この国を狙った戦争が起きていないのは、偏に大魔術師の系譜を引き継ぐ王室の存在が大きい。
ひとりで大量の火薬をただの砂に変えてしまえる魔術師がうじゃうじゃいるこの国と戦争するよりも、友好関係を築き、貿易するほうが有益だと皆承知しているのだ。
そんな魔術師の国に居を構えて二年。
魔術と科学の恩恵を受けた生活にも慣れてきたフラクトゥーアの第二王子だが。
「ほんっっっっっっっっっっっっっっとに可愛い!!!」
抜群の座り心地の座席の上で頭を抱え、悶えるのに忙しい。
「恥ずかしそうに笑うのも、こっち見上げて首かしげるのも、全部! 可愛い!」
「それはようございました」
第二王子付きの侍従長…現在は執事として付き従っているコクマーは、穏やかに相槌を打つ。
毎回毎回、王宮の帰り道に馬車の中で思いの丈を叫ぶのが恒例行事なのだ。
他の者にはとても見せられたものではないと自覚があるだけに、しっかり防音が施された馬車で転げ回って衝動を発散させる。
それにつき合うのも、執事の仕事である。たぶん。
「いつも可愛いんだが、今日のドレス! あの青は彼女に着られるために存在する色だな! 白い肌に映えて、黒髪もいつにも増して艶やかだった! 惜しむらくは宝石! 彼女が宝飾品に興味がないことは知っているが! ヤーパル産の極上花珠真珠を! 贈りたい!!!」
「手配いたしましょうか」
「頼む。ただの友人では宝石は贈れないが、求愛を受け入れていただいた暁にはこの手であの細い首筋につけて差し上げたい」
「かしこまりました」
第二王子の屋敷には、「いつかミネルヴァ様に捧げたい贈り物ストック部屋」があり、そろそろふたつ目が満杯になる。
「あと、記念プレートの発注も頼む」
「はい。今回はどのような銘にいたしますか」
アルフレッドは、ミネルヴァとの関係がわずかに進展…進展というか変化…するたびに、日付を入れた記念プレートを作らせているのだ。
初めて名前を呼んでいただけた記念、初めてエスコートのために小さな手を握らせていただけた記念、初めて笑いかけていただけた記念、初めてお茶の代わりを勧めてくださった記念……ビョーキだと思ってはいけない。記念日体質なだけだ。
「『愛称を呼ばせていただき、愛称を呼んでいただけた記念』だ」
歓喜が滲むどころか漲っている言葉に、王子付きになって三十年のベテラン執事は、つい感嘆の息を洩らした。
「おお…! ついに!」
この王子が、よすぎる顔面のせいで幼いころから人間関係に非常に苦労してきたことを知っているだけに、女性と愛称を呼び合える日が来たとなれば、祝いのパーティでも開きたくなる。
アルフレッドの人生が順調だったのは、十歳くらいまでだった。
フラクトゥーア王室祐筆によって記録された第一の悲劇は、「王太子の婚約者がわずか十一歳の第二王子に欲情して夜這いかけちゃった事件」である。他に言いようはないのかと言われれば、言いようがない、そのままの事件だ。
アルフレッドと兄である王太子は三つ離れているが、王太子よりさらにふたつ上だった元婚約者は、本懐を遂げる前に衛兵に拘束されたため、事件自体は未遂に終わった。幸いと言えたのは、当の王太子が非常にまともな常識人であるため、「子どもになんてことをするんだ!」と憤り、アルフレッドに遺恨を抱かなかったことである。
その後、なぜか恋人や婚約者がいたり、果ては人妻のような自由恋愛はやめとけ、と言われる女性にばかり執着され、追いかけ回されてきた人生だったのだ。
女っ気がない騎士団に入団したのも、それらにうんざりしたからなのだが、顔がよすぎて男にも恋着されたので、第二王子の顔面はどこかの呪いではないかと臣下たちが同情含みに噂するほどであった。
だが、本人が成長し、知恵をつけ、そういったトラブルをある程度回避できるようになると、今度は別方向の問題が浮上した。
恋愛が、長続きしないのだ。
これも、原因は顔だった。
恋仲になった女性も数人いた。
しかし、誰もが、「あなたの顔を見ていると、生きているのが辛くなる」「一緒にいること自体が、ストレスになる」「隣に立つだけで、周りに笑われてるように感じてしまう」と言って、去っていった。
もしかしたら、性格が合わないとか、性癖が妙だとか、他の理由もあったのかもしれない。いや、たぶんあったのだろうとは思う。アルフレッドはそう思いたい。
けれど、誰も彼もが、「顔が無理」と言うのだ。
顔がいいから無理って、そんな馬鹿な。
だが、事実である。
フラクトゥーアの第二王子は、その常軌を逸した造形美を誇る顔ゆえに、ふられ続けてきたのだ。
恋愛ですら無理なのに、結婚しようなどと考える猛者はいない。
国益のためなら、「仮面被ってくれるなら我慢する」という姫君はいるかもしれないが、残念ながらそこまで国益重視の結婚が必要な国も、今のところない。
もういっそ、修道院にでも入って、俗世と縁を切ろうかとまで思い詰めた。
しかし、そこで人生の転機が訪れたのだ。
「本当に…よろしゅうございました」
コクマーがしみじみと呟く。
「二年もの月日をかけて、愛称を呼び合えるようにおなりとは…アルフレッド様の夢のおひとつでございましたものなあ」
「ああ。それにな、ただ呼び合えるようになったのではないのだ。ミネルヴァ…いや、ミーネ殿から愛称で呼んで欲しいと…っ」
目頭を押さえて言葉を詰まらせる主人に、コクマーはうんうんと頷く。
そして、万感の思いを込めて続けた。
「アルフレッド様が、酷い痔を患われたときは、どうなることかと思いましたが、まさかそれがミネルヴァ王女殿下との運命の出会いのきっかけになるとは…」
アルフレッドも、感慨深げに頷く。
「ああ。私自身も、まさか生まれて初めて尻の穴を見せた女性に一目惚れすることになるとは思わなかったよ」
「誠ですなあ。いや、運命の女神というのは、なかなか粋でございます」
「まったくだ」
馬車の中に、主従の笑い声が満ちる。
今、このとき、この馬車が運命の女神の怒りの雷に打たれても、不思議ではない。
三年前、アルフレッドは酷い痔に悩まされていた。
よりによってなんで痔なんだ、と嘆いたが、病魔とは時や場合や相手の都合を考えてくれるものではない。
いわゆる内核痔というもので、羞恥心から御典医に告げることもできず、医師たちが気づいたときには、脱出した痔が指で押し込んでも戻らない状態にまで進行していた。
当然、馬に乗ることはおろか、まともに座ることもできず、さらには出血も続き、筆舌に尽くし難い羞恥と痛み、ストレスに晒されていたのだ。
フラクトゥーアでは、完治は難しいと判断した御典医は、世界最高水準の医療先進国と名高い隣国ブークモールの医師に伝手を使って問い合わせた。
痔の専門病院はないか、と。
すると、痔の専門医ではないが、魔術と薬学に長けた素晴らしい腕前の外科医がいる。彼女なら、間違いなく第二王子の痔を治せるだろうと返事がきたのだ。
ブークモールの医療は、他国とは少々毛色が異なっている。
各科の専門医と、手術を専門に担当する技術医と言われる外科手術の専門家が協力して治療に当たる。
現在、ブークモール最高の技術医は、第三王女であるミネルヴァそのひとだった。
御典医は悩んだ。
あれだけ痔を恥ずかしがっている第二王子が、医師とはいえ、女性、それも王女に己の尻を見せることに耐えられるだろうか、と。それも、ただの尻ではなく、酷い痔を患った尻の穴だ。
自分だったら相当嫌だな、と思った御典医は、詳しいことは言わず、隣国に凄腕の医師がいるから治してもらえとだけ言って、王子を送り出したのだ。
その結果、王子の痔は完治した。
痔は完治したのだが、今度は恋の病を患っていた。
どうして痔の治療で恋に落ちることになるのか、フラクトゥーアの医師たちは本気で首を捻ったが、恋愛に悲観して出家するかもと言われていた王子が元気に恋煩い状態なので、永遠に沈黙することにしたのだ。
「ミーネ殿は、本当に得難い女性なのだ」
アルフレッドは馬車の天井を仰ぎ、神に祈るのにも似た心持ちで呟く。
脳裏に浮かぶのは、診察室で顔を合わせたときのことだ。
アルフレッドは、素性を晒すのは嫌だと身元を偽り、鼻の途中まで隠れるカツラを被っていたから、実際のところ顔は見えていなかっただろうが、そこは気にしない。
「女性に尻を見せるなどと、と言った私を『痔持ちが馬鹿なことを言っている場合か』と一喝し、逃げようとしたところを魔術で拘束して診察台に転がし、遠慮なく下穿きを剥いて…あのような豪胆な女性が存在するだなんて、考えたこともなかった」
「まったくですなあ。アルフレッド様の本気の悲鳴を聞いたのは、不肖コクマー十六年ぶりでございました」
「私の痔を見るなり、『切らないと一生トイレに行けなくなりますね』と冷酷に宣告したのも、まるで戦女神のようで素敵だった」
戦女神の戦車が頭上に落ちてきても、文句は言えない暴言だが、本人はどこまでも本気である。
「それにあの手腕! あれほど苦しかった痔が完治するとは!」
肛門部の外科手術は、衛生的な問題で術後の経過が難しいと言われる。ブークモールでは、魔術のおかげで術後も患部を清潔に保つことができるため、治りが早いのだ。ついでに、薬学が進んでいたことから抗生物質が発見されて実用化されている。
ともかく、アルフレッドが一目惚れしたのは、医師であるミネルヴァだったわけだが、そこから現在のような恋の沼地に落ちたのは、さらに予想外の展開だった。
「彼女ほどの冷血な女性なら、きっと私の顔面にも動じないだろうと思っていたが…それより何より、あの可愛らしさ! 奇跡以外の何ものでもない!」
入院中、顔が隠れるカツラはつけていたものの、数回顔を直視される機会はあったのだ。だが、ミネルヴァは眉ひとつ動かさなかった。
それは、単純に医師としてのスイッチが入っていただけのことだ、と本人が聞いたら頭を抱えるだろう。ついでに、アルフレッドの痔は、近年稀に見る酷いものだった。ゆえに、完全に個人として認識されず、「症例」というタグ付けしかされなかったのだ。開発したばかりの塗布剤の効き目を試す患者として。
そんなことを知る由もない痔持ちだった王子は、女性医師の素性を調べ上げ、驚き、腹を括った。
彼女に求婚しよう。
彼女ですら、この顔面ゆえに自分を避けるのなら、今度こそ出家しよう、と。
なんとなく、フラれ続けた理由は顔以外にもありそうな気がする思考回路だが、ともかく、痔が完治して帰国したアルフレッドは周囲に根回しし、ブークモールで土下座し、ミネルヴァへの求婚に漕ぎ着けたのだった。
そして、どれほど冷静な女性であるか、と期待して対面したわけだが。
「今でも鮮明に覚えている。私を見る不審げな眼差しと、遠慮がちに名乗る可憐な声…」
「完全に、魔術師との婚姻を狙ってきた馬鹿王子を見る目でいらっしゃいましたな」
「だが、彼女は一度も目を逸らさなかった。今だって、いつでも、どんなときでも、私の顔を直視してくださるのだ…」
「実に類い稀なお方です。お母上までもが、見続けていると眼精疲労が凄いと顔を背けられるというのに」
ミネルヴァとて、造形美がアレすぎて目が痛いとは思っているが、さすがに顔を見ずに話すのは無礼がすぎると堪えているうちに、ちょっと耐性がついてきただけなのだ。しかし、耐性がつくまで辛抱強く接した女性もいなかったので、アルフレッドにとってはそこも推しポイントである。
「医師として痔の話をしているときは、あれほど凛々しかったのに、王女として話されるときは遠慮がちだったり、少し怯えていたり、朗らかだったり、可愛らしかったり、無邪気だったり、ときどきカッコよかったり…あのような女性がこの世界に存在しているとは、神は間違いなく在わす」
医師のスイッチがオフになった状態で、顔面暴力な(認識としては)初対面の男に跪いて求婚されたら、ビビるしキョドるし、と男に免疫がない王女は言うだろう。
「医師としては天才的に優秀かつ冷静で神々しく、ひとりの姫君に戻ると、あれほど愛らしく、繊細で愛おしい。見つめると、恥じらって頰を染めたり、モジモジしたり……っっっ」
要は、壮大なギャップ萌えである。
「今日なんて、ちょっと拗ねたように見えないこともない超絶可愛くて小悪魔かみたいな顔で私に様付けで呼ばれるのが悲しいと、か……っ」
半日、網膜に焼き付けんばかりに凝視しまくったミネルヴァを思い出し、座席に突っ伏して悶える。ビョーキではない、感受性が豊かなのだ。
「アルフレッド様、お気を確かに」
「…、大丈夫、だ。まだ死ねない」
やっとのことで身を起こし、深く息をつく。
乱れた髪を手櫛で整え、爆上がりしている心拍数と血圧を落ち着かせるべく、深呼吸を繰り返す。
少し我を取り戻したアルフレッドは、「そういえば」とコクマーに視線を向けた。
「ブークモールの上流階級では、女性は魔法を使わないものなのか」
「はて…あまり聞いた覚えがありませんが」
「そうか。いや、今日ミーネ殿がそのようなことを仰っていたんだ。…私が魔術に関心があると思われたりしなかったかな」
アルフレッドは、ミネルヴァの誤解を招かないようにと、極力彼女の魔術に関する話題には触れないようにしてきた。
下心はありすぎるほどあるが、魔術師の妻が欲しいという類のものではないと意思表示しているつもりなのだ。
実際、アルフレッドは魔術師には全くと言っていいほど、興味がない。ブークモールに住むようになり、予想以上の便利さに驚くことはあっても、それ以上の関心を抱いたこともない。
ただひたすらに、ミネルヴァが愛しいのだ。
氷の女王のような冷静な医師としての顔と、愛らしくはにかみ屋な歳下の王女の顔を持つ彼女が。
「はー…結婚したい。ミーネ殿と夫婦になって、毎日笑って暮らしたい」
「アルフレッド様の願いは、きっと叶いますとも。なにしろ、この二年というもの、着実に進歩なさっているのですから」
コクマーの励ましに、全方位残念が過ぎる王子は、小さく頷いた。
「そうだな。特に今日は大きな前進だった。愛称で呼んでほし……少しは私を男として見てくださっていると思っていいのではないか!?」
ハッと気づいたように目を見開くが、優秀な執事は穏やかな声で諫めた。
「落ち着かれませ。ブークモールは、王族の方であっても親しみを込めて愛称で呼び合うことが多いと聞き及んでおります。ミネルヴァ殿下も、普段は市井の者たちとともに働いていらっしゃるのですから、きっとそういったところも気さくな方なのでしょう。本日のことは、大変喜ばしいことではございましょうが、浮かれすぎては足元を掬われますぞ」
「そう、か。…そうだな、ああ。お前のいう通りだ、コクマー」
完全に冷静さを取り戻し、座席に改めて腰を落ち着ける。
ちなみに、重症だった痔はミネルヴァの的確な治療の甲斐あって、再発はしていない。
「おそらく、今日でやっとスタートラインに立てたということなのだろう。それに、」
アルフレッドは琥珀色の瞳に、ツッと苦悩の色を浮かべた。
「さすがに、まだ言えない。あのとき、貴女に痔を治していただいて恋に落ちました、とは」
「……左様でございますな」
それはできれば一生言わないほうがいいのでは、と執事は思った。
思ったが、まだその段階にはほど遠いとも考え、口をつぐむことにした。
花の王の末裔と風の女王の末裔の、二年越しの恋の空騒ぎは、まだまだ続く。