平成最後のおいしい話。




 今回の十連休。
 旅行には行かず、基本的にうちにいて、出かけるときも日帰りだけ。
 ずっと一緒で、考えるだけで幸せでうきうきするんだけど、桜子さんはどうなんだろう。


「ほづみくーん、最後の洗濯しちゃうけど、一緒に洗うものってある?」
「特になーい」
 台所でIHを磨き倒しながら声を張り上げると、廊下から「はいよー」という返事と遠ざかる軽い足音が聞こえた。
 大型連休の一日目は、季節外れの大掃除だ。
 年末にゆっくりしたいという理由で、この時期にもやっておくことにした。
 俺が家中の水回りを、桜子さんがその他の汚れが目立つところを担当している。
 「最後の洗濯」というのは、朝からカーテンやベッドカバー、シーツみたいな大型のやつを洗うために、既に数回洗濯機を回しているからだ。
 なにかの漫画本で読んだとかで、「カーテンは暑い季節に洗って、まんまカーテンレールにかけちゃえばいいんだって!」と桜子さんが言うもんで、盛大に洗った。確かに、厚手のやつは冬場に洗うと乾燥させるのに苦労する。
 尤も、今日は例年に比べると、随分涼しい連休初日だ。
 おかげで、熱いデザートが美味い。
 さっき、掃除したばかりのオーブンの中では、今日のおやつがいい感じに焼けているはずだ。いつもなら、バターと小麦粉が焼ける甘い匂いが充満している頃合いだが、掃除のためにあちこちの窓を開け放しているから、いつもほど濃厚ではない。
「ん、こんなもんか」
 四つ口のIHは、相当ピカピカだ。調理台やシンクも、ドイツ製の油落としと酢酸のおかげで、見違えるほど綺麗になった。
 まあ、普段から桜子さんが掃除してくれてるから、死にそうなほど汚れてないってのも大きな理由だと思うが。
 過去の女と比べるなんて無礼千万だし、桜子さんにわざわざ言う気もないが、今までつき合ってきた女性の中で、彼女は一番几帳面というか、生真面目というか、「きちんとした」性格のひとだと思う。
 基本的に散らかさないし、使ったものとか出しっぱなしにしないし、汚れたらすぐに綺麗にしようとする。唯一の例外が授業準備と研究関係で、プリントや本があっという間に周りを侵食するんだが、見ているとおもしろい。
 しかも、他のものはさっさと片付けるのに、プリント関係の整理は苦手らしく、途方に暮れるのだ。
 最初に整理を手伝ったのは、単純に見かねたからだが、今ではすっかり資料整理については頼りにされていて嬉しい限り。
 なにせ、母を見てるもんで、下手に触るととんでもないことになるんじゃないかと危ぶんでいた。
 あのひと、愛蔵書もそうだが、研究関係のものは死んでも誰にも触らせない。親父ですら、書斎に踏み込むときは緊張してたもんな。
 母と比べるなんて、猛獣と子ウサギを比較するようなもんだが、桜子さんがその手の凶暴さを持ってるひとじゃなくてよかった…俺の膝の上が一番落ち着くって言ってくれる奥さんで死ぬほどよかった……。
「ほづみくーん、そっちどうー?」
 感慨に耽っていると、桜子さんが軽い足取りで入ってきた。
 我に返って、握りしめていた使い捨てのワイプをゴミ箱に放り込み、振り返る。
「終わったよ。久しぶりにピッカピカ」
「おお!…で、綺麗にしたばっかりのオーブンで何焼いてるの?」
「冷凍のデニッシュ生地があったから、オレンジとリンゴのペストリー。おなか空いてるだろうから、ソーセージのも」
「やった!焼き立てペストリー!」
 カウンターの向こうで満面の笑みを浮かべる桜子さんは、大きめのトレーナーにジーンズという身体の線が見えない格好だが、いつもは下ろしっぱなしの髪をまとめているから、すっきり小顔。こうやって見ると、頭とか顔、ちっさいんだよな。
 結婚前は、頰が削げていたから、小さいというより鋭角な印象だった。今は、ほっぺがふっくらやわらかくなって、ころんと卵型だ。
 絶対、出会ったころより可愛くなってる。
「ほづみくん?呆けてる?」
 目の前で手をぶんぶん振られて、慌てて首を振る。
「いや、いい天気だし、外で食べるのもいいかもなーって」
 口から出まかせではなく、朝から湿気もなく、すっきり涼しいからピクニックもいいと思っていたのだ。
 でも、桜子さんはちょっと眉を寄せた。
「せっかくの焼き立てなんだから、熱々に食らいつきたい」
「なるほど」
 彼女がこう言うってことは、間違いなく食らいつく。大口でがぶっと。
 ちょっと考えて、思いついた。
「じゃあ、ちょう近場でピクニックモドキしよう」
「ちょう近場って?」
「絶好の穴場があるんだよ。徒歩三十秒足らずのとこに」
 桜子さんが不思議そうに首を傾げたとき、焼き上がりを知らせるオーブンの電子音が響いた。


「確かに穴場!」
 笑った桜子さんが、両手で掴んだフランクフルトのペストリーにかぶりつく。
 俺も同じものを頬張ると、バリッと皮が破けて肉汁があふれ出した。
「あっついけど、美味しいねえ」
「生地で包んじゃってるから、変形ホットドッグみたいだけど」
「肉汁すごいから、ちょうどいいよー」
 満足そうな桜子さんの髪が、風に揺れている。
 俺たちがいるのは、自宅の屋上だ。
 普段は洗濯ものを干すのに使っている。今も、シーツなんかが風にひらひらと揺れていた。
「それにしても、おうちでピクニックかー」
「庭だと通行人と目が合うし、店側のテラスだと営業中だと思われそうだし」
「うんうん、ここなら人目気にしなくていいね」
 周縁はぐるっと手すりがついているから、それほど危なくないし、階段室がちょうどいい日除けになっていて、直射日光を浴びることもない。
 洗濯カゴを置くために使っているベンチに並んで座ると、いい感じに大学構内の緑が見える。
 うちは周りの住宅より少し背が高くて飛び出しているから、意外に見晴らしがいい。
 気分を出すためにバスケットに焼き立てペストリーとコーヒーポットを詰めて、おやつタイムだ。さすがにテーブルはないので、並んで座った間にバスケットを置いて、そこから直接取るようにした。
「気持ちいいねえ」
「風、強すぎないしね」
「もしかして、ここから花火とか見える?」
「…どうだろう。気にしたことなかったけど、夏はそういや音は聞こえる」
「じゃあ、冷たいスパークリングとおつまみで、自宅花火大会できる?」
「今年は試してみようか」
 他愛ないことを話しながら、プラスチックのカップに入れたカフェオレを啜り、顔を見合わせて笑う。
「連休初日から、贅沢な時間の使い方」
「朝から掃除しまくったじゃん」
「それが贅沢なのー」
 ビビッドな赤のカップを抱えて、桜子さんが口をとがらせた。
「連休中って授業ないから、必死で短期バイト探してずっと働いてたんだもん。昔から、連休が休みだったことなんてないよ」
「…ずっと?」
「うん。実家は当然のように営業してたし、家出てからはそんなんだし。だから、家中ピカピカにしてってか、うちで普段はできない家事しておやつ食べてって、贅沢」
 バスケットを覗き込み、オレンジとチョコクリームのペストリーをつかみ出して、嬉しそうにかじりつく。
「ほろ苦チョコとオレンジが美味しい〜。このオレンジ、ママレード?」
「うん。甘み強いから、チョコが苦めでもいいかなって」
「バッチリ!大人のおやつだね」
 カフェオレを口に含むと、なぜか苦い。
 りんごとカスタードのペストリーをかじっても、あんまり甘くない。
 おかしいな。ちゃんと砂糖入れてるんだけど。
 内心首をかしげる俺の横で、桜子さんはぱくぱくと綺麗に平らげ、デニッシュの屑を払う。
「ここに落としたら、鳩とか来るかな」
「どうだろう…」
「あとで掃除しとこ。ふー、ひとまず満足」
 言葉通り、いつもの笑顔で手を合わせる。
「桜子さん、りんごの食べてないんじゃない」
「おなかいっぱいだから、残しちゃいそうだなーって」
「じゃあ、食べかけだけど、ひと口」
 手に持っていたペストリーを差し出すと、嬉しそうにかじりつく。…なんか、手から直接食べてくれるのって、究極的に信頼されてるような気がするんだけど、俺だけの感覚なんだろうか。
 俺を喜ばせている自覚皆無そうな奥さんは、口の端にクリームをつけて、にまーっと笑う。
「んーまいっ。ほづみくんのカスタードクリームって、まったり濃厚なのに後口重くなくていくらでもいけちゃう」
「今度、カスタードフルーツでも作ろっか」
「なにそれ?」
「言葉通り、カスタードに好きな果物混ぜて冷やしただけなんだけど。パイを添えて、変形ミルフィーユにしたり、フルーツサンドにしても美味しい」
「食べたい!フルーツサンドって、なんか妙にテンション上がる」
「そうなの?」
 手を伸ばしてクリームを拭う。
 いつもなら舐めとるんだが、バスケットが邪魔なのだ。
 外では、こんなに無防備じゃないから、完全にリラックスしてるってことで、できれば膝抱っこしたいけど狭いな、ここ!
 食べ終わったら、家に入っていちゃいちゃしたい。掃除で汗かいてるし、のんびり風呂に入って、美味い酒とチーズとかつまんで、撮りためてるドラマとか観て……いつもと変わらないけど、翌日の仕事がない、焦る必要が何もないという気楽さがいい。
「材料あるから、明日の昼はサンドイッチにしようか」
「タマゴサンドも作って」
「はいはい。他にリクエストある?」
「サーモンとクリームチーズのやつ食べたいな」
「どうせなら、オープンサンドにする?手巻き寿司みたいに、好きな具をのっけて食べるやつ」
「…フルーツサンドは、普通のがいいです」
 どうやら、結構こだわりがあるっぽい。
 カフェオレを飲み干して、ふーっと息をつく。
「疲れた?」
 朝からずっと動きっぱなしだもんな。今日は無理せず、早く寝たほうがいいかも、と思ったんだが。
「んーん。疲れたんじゃなくて、満足のため息。連休終わるまで、ずっとほづみくんと一緒だし、ふたりでこうやってゆっくりできるのいいなあって」
「…疲れない?」
「なにに?」
「や、たまにはひとりで息抜きしたい、とか」
 深い墓穴を掘っている自覚はあった。
 でも、まともに連休を楽しんだことがないのなら、少しくらい自分だけの時間が欲しいと思ったりするんじゃないだろうか。
 我ながら阿呆なことに、息を止めて返事を待つ。
 桜子さんは、丸い目をさらに丸くして首をかしげていた。
「息抜き…ねえ。具体的に、ひとりで何するの?」
「え」
 改めて聞かれると、返事に困る。
 固まる俺にちょっと笑って、コーヒーポットを持ち上げた。
「おかわりする?」
「あ、うん」
 空になっていたカップふたつに湯気の上がるカフェオレを注ぎ、桜子さんは「息抜きってさあ」と続けた。
「普段できないことしたり、行けないとこに行ったり、今いる場所でしんどくなったり疲れたりしたら、気分転換することだと思うのね」
「あ、うん」
「職員室の世間話とか聞いてると、仕事と家事の両立が大変とか、いっつも家族のために何かしてて疲れるとか、そういうのが多くて、そんな生活なら息抜きというか休息っていると思うんだけど。私、家ではストレスないから」
「…そうなの?」
「うん」
 あっさり頷いて、抱えたカップからカフェオレを啜る。
「子どもがいたら、育児疲れとかあるかもだけど。それでも…なんて言うのかなあ……ほづみくんとだったら、余計なストレスとかなさそう。今だって、家事とか諸々、全然不公平感ないもんね。お互い、得意なこと、できることやっちゃおう、間に合わないとこは助け合おうって普通にしてるし」
「や、でも、ほら自分で言うのもなんだけど、構いたがりだし」
「んー…それもねえ、自分でも不思議だけど平気なんだよね」
 少しきつめに吹いてきた風が、桜子さんの髪を揺らす。半日以上ひっつめていたせいで、クセがついた髪を押さえながら、俺に向かって「すずしーい」と笑った。
「一緒にいてイライラするとか息が詰まるとかないし、私、何かに集中すると周りが見えなくなるでしょ。だからか、ひとりになりたい!って思ったことがないんだよ」
「そっか…」
「ほづみくんといるほうが落ち着くしね。だから、最近レポートとかもリビングでしてるでしょ」
「あ、確かに」
「まあ、資料本とか教材とかがいるときは、仕方ないから部屋にこもってるけど、二時間くらいで集中力切れちゃうし。だから、連休中、ずっと一緒のほうが安心できるの」
「そっか…」
「そうなんですー」
 歌うように言って、湯気が落ち着いたカップに口をつける。
「む、冷めるの早いな」
「急に涼しくなったもんね」
「ねー。カーテン、ちゃんと乾くのか心配。レースのは大丈夫だろうけど」
「夜はもっと寒いだろうし、チーズフォンデュでもする?」
「え、フォンデュ鍋あるの?」
「ないけど、ホットプレートでできるんですよ、奥さん」
「マジか」
 少し陽が傾いて、気温が下がってきた気がする。
 手の中に残っていたペストリーを口に押し込んでカフェオレを流し込むと、甘い。
「そろそろ下に降りる?」
「そだね。そういや、夕飯の買い物とか行くの?」
 バスケットを閉めながら、「いや…」と首を振った。
「市場が閉まってるから、商店街の店も大半閉めてるって言うし。明後日くらいに、店関係でお世話になってる農家さんを回ってこようかと」
「え、私も行きたい」
「あ、そう?」
 今まであまり話に上がらなかったから、興味がないのかと思っていたんだけども。
「うちの卵も野菜も美味しいから、一度どんなとこで育ててるのか見てみたかったんだけど、タイミング合わなくて」
「普段は、持ってきてもらってるしね」
 この近辺の店に卸しているから、決まった日にまとめて届けてもらっているのだ。
 連休中は当然配送は休みだし、店用じゃないし、出向いて買うつもりでいた。
「じゃあ、それこそピクニック兼ねて、行ってみる?」
「うん!」
 大きく頷いて、立ち上がる。
 俺もバスケットを持って腰を上げた。
 こっちを見上げた桜子さんが、小さく笑う。
「なに?」
「んーん。きっと十日ってあっという間に終わっちゃうんだろうなあって」
「あー、そうだね」
「楽しい時間ほど、早く過ぎるって言うけど、ほんとだね。ふたりでまったりしたり美味しいもの食べたりしてたら、え、もう終わり?ってなりそう」
「それはそれで楽しいよ、きっと」
「えー、そうかなあ」
「僕としては、桜子さんがずっと家にいたいから仕事辞める!って言ってくれるんなら、それこそ連休万歳ですが」
「それはない」
 ピシッと断言した。
 チッ。
「もー、せっかくいい感じにまとまりそうだったのに」
 ちょっと頰をふくらませる奥さん、可愛い。
「ほづみくん、忘れそうなタイミングでチラチラヤンデレっぽさ見せるんだもんなー」
「僕の常態をヤンデレって言わないの、桜子さんくらいだよ…」
「普段のほづみくんのは、甘やかしだもーん」
 俺の手を取り、ぶんぶん振る。
 そして、にまっと笑った。
「連休中も、いっぱい甘やかしてね?」
 不覚にも、グラっときた。
 ダメだ。うちの奥さん、危機管理能力なさ過ぎる。
「さくらこさん」
「なにー?」
「ヤンデレ魂に火をつけたね」
「今の会話のどこでそんなことに」
「問答無用で甘やかし生活10Daysだから」
「まって、こわい」
「連休終わるころには、自分で歩くのもめんどくさいって思うようになってるから」
「お願い、落ち着いて」
「大丈夫、過去最高に冷静に計画的に桜子さんをダメにするつもり」
「それ、だいじょばない」
 顔を引きつらせる奥さんの手を握りしめて、固く心に誓う。
 この連休、桜子さんが心底のんびり寛いで、楽しめるようにしよう。
 休み明けに、仕事がちょっぴり憂鬱だなー早くうちに帰ろーって思ってもらえるように。
「まずは美味しいチーズフォンデュだな」
「ほづみくん、お手柔らかに…」
「そういや、いいカヴァが冷えてるんだけど、開けちゃう?」
「ぜひ!…違う。餌付けしないで」
「あ、昆布でしめてる鯛があるから、あれも食べなきゃ。カルパッチョにして、山葵醬油?バルサミコ?」
「両方!」
 食欲で目をキラキラさせる桜子さんは、やっぱり可愛い。
「しまった…ダメだ、美味しいものにすぐにつられる」
 表情がコロコロ変わるのも、可愛い。
 出会ったころは、こんなに感情表現が豊かなひとじゃなかった。
「美味しいもの食べて、楽しいことして、それでいいんだよ。人間なんだから」
「なんか、過去最高に根拠ないくせに反論しづらい理由だわ…」
 軽く息をついて、「まあ、餌付けは今更か」と呟く。
「そもそもが美味しいものにつられたんだもんね」
「そうそう。だから、安心して甘やかされてください」
「ヤンデレの安心してってめちゃくちゃ怖いわ」
 笑いながら、階段室のドアを開けた。
 ホームエレベーターもあるけど、今日は階段で降りる。
 前を行く桜子さんが床に足をつけたのを確かめて、後ろから抱きついた。
「お、どした?」
「んー、なんか幸せだなーって」
 華奢な身体を抱きしめて、にんまりする。
 嫌がられない、振り解かれない、手をぎゅっと握りしめてくれる。
「私もしあわせー」
「ほんと?」
「ほんと」
 覗き込む前に顔を上げて、軽くキスをしてくれた。
「ヤンデレな旦那さんだけど、大好き」
「僕も可愛くて食いしんぼな奥さん大好き」
「なんか微妙…」
「お互いさまです」
 声を上げて笑う。

 楽しいことして、美味しいものを食べて。
 ずっとふたり一緒にいよう。
 それが、きっと最高にしあわせ。