箸休め
大学傍の住宅地の中に、そのカフェはある。
周りには、普通の家に混じって雑貨屋や花屋、古着屋なんかもあって、とてもおしゃれ。
でも、群を抜いて素敵な外観で、できたときから気になっていた。
背の低い石垣と、それにマッチする石造りっぽいお店。
門から店の入り口までは小さな庭になっていて、いつも綺麗に手入れされている。
ふたり席のあるウッドデッキも、イギリスの絵本なんかに出てきそうな雰囲気でドキドキする。
どんなメニューがあるのかとか、平均価格はどのくらいかとか、気になってネットで調べてみたけど、全然情報はなかった。
大学生には厳しい価格帯かも、と思ったけど、あんまり素敵で可愛くて、もらったばかりのバイト代を銀行で下して、ひとりで乗り込んでいった。
重いドアを開けると、頭の上でカロン、とベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
誰もいない店内に心地よく響く低めの声。
綺麗に笑うそのひとを見た瞬間、恋していた。
大学傍のカフェ、「The Kitchen」。
二年くらい前にできたころは、全然客が入ってなかったのに、ここ暫くは昼時に来ると満席になっているくらいの人気店だ。
お値段は学生向けじゃないけど、繁華街のバカ高い店よりずっと良心的。
味は、その辺のレストランじゃ敵わないくらい美味しい、と思う。
ふつーの大学生じゃ、スタバとホテルのお高いコーヒーの違いもわかんないから、たぶん、だけど。
うちの大学は、はっきり言ってダサい。
大学前にはチェーン店の居酒屋やラーメン屋ばっかりで、カフェはほんの少し。それも、薄暗くってどこの国なのか謎すぎるインテリアでわけがわからない。
学内にも学食しかなくて、よその大学みたいにシアトル系カフェやファーストフード店が入ってるってこともない。
まあ、理系の学生にはありがたいことに、なぜか二十四時間営業のコンビニだけはあるけども。
学費の安さと設備のよさで選んだ大学だけど、私がいる理工学部は男ばっかりだし、ムサいし、心の潤い皆無だ。
だから、この店ができたときは、三度見くらいした。
それから二か月くらい、ずっと前を通るだけだったのが、やっぱり気になって入ってみて。
そしたら目が潰れそうな美形が店員さんで、死ぬかと思った。
中高と女子校で、男性に免疫がないってのを差し引いても、おかしなくらい心臓がドキドキして、メニューの説明してもらうだけで息が止まりそうになった。
そのせいか、頼んだキッシュは完食できなくて、ものすごく申し訳ない気持ちになって、なかなか二回目が果たせなかったのだ。
初めて行ったときから、うだうだして三か月くらい経って、決死の覚悟で出向いたら、やっぱり彼は素敵だった。
前のときより、少しお客さんが入っていて、皆静かに本を読んだり、ぼんやりしたり、私が知っているカフェとは全然雰囲気が違う。
ここは、友達と賑やかにわいわいする店じゃないんだな、と思った。
だから、ここに来るときはいつもひとりだ。
キッシュもシチューも美味しいんだけど、どうしてなのか、完食するのが難しくて、残すのが嫌でケーキ類ばっかり頼むようになったけど。
あの店員さんが店長さんなのか、いっつも彼ひとりで、他のお客さんがいないときはふたりっきり。…話したことはないんだけどさ。話しかける勇気もないし。
あんまりお客が入ってないみたいで、潰れるんじゃないかって不安もあったけど、カウンターに座ると厨房にいる彼の姿がちらちら見えて、それだけで幸せだった。
卒業まで、まだ三年以上あるし、大学院にも行くつもりだし、そのうち話しかけて、ちょっとずつ仲良くなって、あわよくば彼女になれたら…とか、夢見たり。
まずは、常連って認識してもらわなきゃなあと思いつつ、一年くらい通って。
悠長にしていた自分が、ただのマヌケだったんだと思い知ることになった。
年末が近い今の季節、昼間でも寒くて辛い。
講義が終わり、友人たちと別れて「The Kitchen」に向かった。
重いドアを開けると、カロンとベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
やわらかい女性の声に出迎えられて、ガッカリする気持ちを抑え込んだ。
「おひとり様ですね。こちらのお席にどうぞ」
特別美人じゃないけど、感じのいい笑顔だ。
チラッと見ると、カウンターは満席だった。
案内されたふたり席でリュックを下ろしてコートを脱ぎ、座り心地のいいソファみたいな椅子に落ち着いて、メニューをもらう。
お冷のグラスを置いて去っていく女性店員さんの背中を見送り、ため息をついた。
二か月くらい前から、急にお客が増えたと思ったら、彼女がここで働き始めた。パートさんなのか、毎日いるわけじゃなさそうなんだけど、今月に入ってから、来るたびに彼女を見るようになった。
名前は「桜子」さん。他のお客さんと、彼が呼ぶのを聞いて知った。
まだ二か月くらいなのに、お客さんとも彼とも、すっごく親しそう。…もともと、この辺に住んでたのかな。
また出そうになるため息を飲みこんで、メニューを開いた。
あ、新作のアップルパイ、まだあるみたい。「sold out」のシール、貼ってないや。これ、熱々のパイにクリームとアイスがついてて、すっごく美味しかった。暫く売り切れが続いてて食べられなかったんだよな。でも、キッシュとシチューのセットも食べたい………よし、バイト代入ったし、贅沢しよう。
顔を上げると、「桜子」さんがすっと近づいてオーダーを取っていく。
「ドリンクはアップルパイと一緒のほうがよろしいですか」
「はい」
「かしこまりました」
なんだか、すっごく丁寧な接客をするひとで、両親と行ったホテルのレストランを思い出す。
でも、人懐っこい笑顔だから、緊張することはない。
ピンと伸びた背中を見送り、ちょっと自分のセーターの胸元を見下ろした。
…あのひと、かんなり胸あるんだよね。そのくせ、タブリエしてるウェスト、ほっそいし。
やっぱり男のひとって、ああいうスタイルが好きなのかな…いやいや、彼が巨乳好きとは限らないし。だいたい、つき合ってるかもわかんないしんだし。親戚とかって可能性もある。
不安を飲みこんで、リュックから読みかけの小説を出した。
この店でスマホを触るのは何となく嫌で、いつも本を持って来ている。
ページを捲り…でも、全然集中できない。
彼女がここに来てから、彼は厨房にいることが多くて、あんまり姿が見られない。
でも、ときどきカウンターに出てくることがあって、そういうときはお客さんや彼女と話すことが増えた。
彼の名前とか、笑顔とか、焦ってるときの顔とか、おかげで知ることができた。
嬉しいんだけど、素直に喜べない。どれも、私に向けられたものじゃないから。
紙面に視線を落としたときだった。
「おまたせしました。タンシチューとキッシュのセットです」
やわらかい女性の声がして、顔を上げた。
彼女が手際よくプレートをテーブルに並べる。
「シチューが熱いので気をつけてくださいね」
「…ありがとうございます」
にっこり笑ってお辞儀して、足早に去っていく。
フォークでキッシュの先端を削って口に入れる。
美味しい。
このキッシュ、前と味が変わったような気がするんだよなあ。シチューもなんだけど、軽くなったっていうか、後口がすっきりして食べやすい。
前は、美味しいんだけど、食べてるうちに食べてる量以上に満腹になってしまって、食べきれなかった。
そういや、ランチセットも前はなかったし。もしかして、一品食べきる前に飽きちゃってたんだろうか。
セットのシチューを頬ばり、とろとろのタンとよく絡む濃厚ソースを堪能していたとき。
「桜子さーん、ごめん、これも一緒にお願い」
大好きなひとの声がして、前のめりだった身体をパッと起こした。
カウンターを見ると、彼が厨房から出てきたところだった。
いつもの白いシャツと黒のタブリエ姿を見るだけで、心臓がきゅっとなる。
「はいはい。三番さん?」
「うん。マスタード抜きね」
「りょうかーい」
もっと見ていたいのに、彼女と親しげに話して、すぐに厨房に引っ込んでしまった。
ついため息が洩れる。
彼女は、窓際の高齢者グループのテーブルに皿を運んでいく。
「お待たせしました。日替わりサンドイッチのカラシ抜きです」
「お、ありがとう。…桜子ちゃん、このキュウリのできそこないみたいなの、なんだい」
「ヒマラヤのキュウリのお漬物みたいなものなんです。甘酸っぱいので、お口直しに食べてもらうとさっぱりしますよ」
「へー! ヒマラヤのキュウリかい。おもしろいねえ」
…このピクルスのことかな。
私のキッシュにも、小指くらいの大きさのピクルスがついている。
具だくさんのキッシュを咀嚼しつつ、カウンターを眺める。
彼、出てこないかなあ。
やっぱりあの店員さん、彼女なのかなあ。
そもそも、彼、独身なんだろうか。指輪はしてないけど、飲食業だと仕事中は外してるひとも多いっていうし。…好きとか言いながら、私、何も知らない。だってカッコよすぎて、顔を見るだけで死にそうなんだもん。
自分の意気地のなさに気落ちしつつ、トレイいっぱいに汚れた食器を載せて、スタスタと歩く彼女を目で追う。
「ほづみくん、コーヒーできてるー?」
言いながら厨房に入っていって、出てきたときには彼も一緒だった。ラッキー。
「それ、私がやるから、デザートプレートしなよ」
「もうほんとすんません。すっげ助かる」
カウンターの中でテキパキと動くふたりを眺めながら、美味しいランチを食べ進め。
…あ、このピクルス、結構イケる。
「ねえ…パウンドケーキのオーダーなんて入ってた?」
「え? 五番さんのデザート…」
「は、クラシックショコラ。何をどう間違えた」
「…マジか」
「しょーがないなあ。オーダーミスの分は店長のオゴリで私のおやつね」
「謹んで進呈させていただきます」
笑っている彼を見ると、ドキドキするけど切ない。
キッシュの最後のひと口を飲みこんで、残っていたシチューソースで流し込んだ。
「店長さん、もう尻に敷かれてるのねえ」
カウンターに座っていたおばあさんが、おっとりと笑う。
「いやー、僕のは好きで奥さんに負けてますから」
…え?
「ほづみくん、まだ奥さんじゃないから」
「いいじゃん。年内はバタバタするからって避けただけで、入籍する日は決めたんだし」
入籍。
そっか…やっぱ独身だったんだ。
そんで、やっぱ彼女が恋人だったんだ。
そっか…そりゃそうだよな。仲、よさそうだもん。
ふたりでカウンターにいるとき、距離近いなって思ってたし。
私みたいなお子様じゃ相手になんないよな。
「お食事がお済みでしたら、食器、おさげしてもよろしいですか?」
ハッと顔を上げると、いつの間にか彼女が傍に立っていた。
…美人じゃないのに。
ただ、笑顔が可愛いってだけで。
もの凄くどろどろしたものが胸の奥からこみ上げてきて、必死に歯を食いしばった。
「…お客様? どうかなさいましたか」
心配そうに顔を覗き込んでくる彼女を、突き飛ばしてやりたい。
膝の上でぎゅっと拳を握る。
「あ…はい。ちょっと、朝からしんどくて。あの、申し訳ないんですけど、アップルパイとドリンク、キャンセルしてもらえますか」
「ええ、もちろんです。もしよろしければ、タクシーをお呼びしましょうか」
お冷、ぶっかけて、罵ってやりたい。
「いえ、すぐそこなので。すみません。お会計、お願いします」
「かしこまりました」
パタパタと厨房に戻っていく彼女の顔を、二度と見たくない。
おつり、いらないからこのまま多めに代金を置いて、帰ってしまおうか。
腰を浮かしかけたときだった。
厨房から彼が出てきて、こっちに歩いてくる。
そして、テーブルの横に腰を落として、私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか」
こんなに近くで話したこと、ない。
注文とか、会計とか、それ以外の話も。
なんにも知らなかったら、きっと馬鹿みたいに浮かれてたんだろう。
泣きそうなのを息をとめて堪えて、なんとか頷いた。
「あ…だい、じょぶ、です。寝不足で、調子が悪いだけだと思うので」
「そうですか。もし、お邪魔にならないようなら、アップルパイ、お持ち帰り用にお包みもできますよ」
どうしよう。やっぱり急にキャンセルなんて迷惑だったんだ。
いろんな感情で頭のなかがぐちゃぐちゃにいっぱいになって、彼に嫌われるとか、迷惑な客だと思われるとか、ネガティブなもので息が詰まる。
でも。
「アップルパイを始めたときに一度、注文されて、そのあと何回か売り切れだったでしょう。冷めても食べられますし、もしご自宅にレンジかトースターがあるなら、温め直していただいても大丈夫ですから」
え…。
やわらかい笑みを浮かべる彼を、ポカンと見つめてしまった。
「あの、私の注文、や、注文、してないです、けど…?」
「あ、はい。実は彼女が」
彼が、後ろからついてきていた彼女を振り返る。
「凄いんですよ、記憶力。一回いらっしゃったお客様の顔は大抵覚えてますし、二回目、三回目で同じオーダーならそれも覚えてるみたいで」
「何回かアップルパイ、もうないんですかってお聞きになった方だなあと思って。ご迷惑だったら、すみません」
「いえ…あの、アップルパイ、包んでいただけますか」
「かしこまりました。ほら、ほづみくん、急いで」
「はいはい。じゃあ、お席で会計させていただきますので、座ってお待ちになってくださいね」
彼が厨房に戻り、彼女がお会計をしてくれた。
「調子が悪いのに、お引止めするようなことを言って、申し訳ありません」
すまなさそうに謝ってくる彼女に、今度は罪悪感でいっぱいになる。
このひと、何も悪くないのに。
「いえ、私こそ、急にキャンセルなんてすみません」
「あ、それは本当に大丈夫なんです。ご用意はまだでしたし、してあったとしても、私のおやつになるだけなので」
冗談めかした言い方に、つい笑ってしまった。
そのあと、きちんと箱に入れてもらったアップルパイを持って、店を出た。
マンションに戻って箱を開けると、メッセージがついたショップカードが入っていた。
ちょっと癖のある字で、「本日は、ご来店ありがとうございました。お大事に」と書かれたそれを眺めて、綺麗なきつね色のアップルパイも眺めて。
泣きながら食べたアップルパイは、やっぱり美味しかった。
失恋したと言えるほど何もしていなかった一方的な恋心が、使用済みティッシュ以下の役立たずになってしまって、早数か月。
あとひと月くらいで三年生だ。
あれから、「The Kitchen」には行っていない。
顔は覚えてもらえたかもしれないけど、彼とどうこうなんてこと、ありえないんだし、彼女と仲良くしているのを見るのも辛い。
でも、タンシチュー、食べたいなあ。
四月から始まるゼミ準備のために、春休み中だけど大学の図書館に向かう。
まだ寒いけど春は近づいているのか、どこからか花の匂いがしてくる。
もう昼を過ぎてるし、先に学食でごはん食べちゃおうかな。
大学傍のマンションで独り暮らしなので、食事は基本的に学食とコンビニにお世話になっている。
「The Kitchen」に行かなくなって、おかげさまでエンゲル係数はだいぶ下がった。
合コンとか飲み会とか、あんまり行かないし、おしゃれもそこまで興味があるほうじゃないから、仕送りやバイト代も減らない。いいことだ。
ぶどうを眺めているキツネの気分で、建物だけはやたら立派な学食に入った。
朝は牛乳だけだったから、カツ丼とうどんのセットを頼む。太るかもとか、気にしない。
どうせ好きなひとなんていないし、カレシがほしいとかも思わない。
学期中とは違い、空席が目立つテーブルの端っこに座って、いただきます。
明らかに運動部の男子学生向きな分厚いカツにかぶりつく。
そのとき。
「相変わらず、すっげ手の込んだ愛情弁当だな」
隣のテーブルから、女のひとの声がした。
「ひと口ハンバーグに青菜、それ、野菜炒め?」
「工藤…これ、ハンバーグじゃなくてつくねだよ。あと、青菜ってのは緑が濃い葉物野菜の総称だ。これはほうれん草って名前がある」
あれ、この声…。
「細かいな、日本語教師」
「そういえば、つくねとハンバーグの違いって何なんですか」
「……大きさ」
「工藤、適当なこと言うんじゃないっての。明確な定義づけは難しいみたいだけど、料理本とかには材料とつなぎの材料の違いって書いてるね」
「じゃあ、つくねとつみれは?」
「あれは調理法の違い。つみれはスプーンとかで掬って、お湯とか出汁に落とし込んで火を通すの。語源辞典なんか見ると、つくねは捏ねるって字で『捏ね』って書いたみたいだね。つみれは抓むが語源って説がある」
そっと隣を窺うと、女性三人のグループが座っていて、その中にあのひとがいた。
お店では上げていた髪を下ろして、薄手のセーターを着ているけど、間違いなく「桜子」さんだ。
他のふたりは学食の食器だけど、彼女の前にだけ、お弁当箱が置いてある。持ち込みオッケーだから、それはいいんだけど。
…なんで、ここでお弁当食べてるんだろう。
うちの学食、ときどきテレビとかで紹介されてるから、食べに来たんだろうか。
いや、でも、弁当持ちでそれはないだろう。
わけがわからないまま、もそもそとカツ丼を食べながら、褒められたことじゃないと思いつつも耳を欹てる。
「さすが日本語教師。細かい」
「それ、褒めてないだろ」
日本語教師って、日本語の先生? え、でも、「The Kitchen」の店員なんじゃ…。
「誉めてるって。細かいの意味違うけど、分析学の大崎先生が、研究対象言語が英語だったら自分のとこに呼んだのにって嘆いてたんでしょ。高倉、定義付けとか仮説の条件付け、すっげ綿密にやるから」
「ありゃー今いる留学生がどんぶり勘定過ぎて、分析学に足ツッコんでた日本人学生が欲しいってだけだろ」
「そもそも、大崎先生の分析って高倉さんの分析とはハタケ違いますよね? 検定ソフト、使わないし」
「だねー。大崎先生のは正確には統計学で、私のはコーパスとか、談話分析とかの分析学。二度と嫌だけど」
「高倉、前のとこで百件以上のデータ分析やってたもんねえ」
「我ながら、狂気の沙汰だと思った」
専門用語らしきものがポンポン出てくる会話に首を傾げそうになる。
なんか、よくわかんないけど、学生?
「でもまあ、あっちとは完全に縁切れてよかったじゃん。思いがけん方向にいったけどさ。真住居(ますい)先生とは相性いいんでしょ」
「うん。あのひと、もともと社会学のひとでフランス留学までしてたんだって。私も大学は仏文だったし、修論テーマにフランス事例も取り入れるしで、めちゃくちゃゼミが盛り上がる」
「白熱するならわかりますけど、盛り上がるゼミってよくわかんないですねえ。それに、真住居先生って、言葉は悪いですけど、変人って有名ですし」
「まあ変わってるとこはあるけど、研究者とか教育者って視点から言えば、至極真っ当だよ。少なくとも、学生の研究に好き嫌いでケチつけたりしないもん」
研究に修論。
彼女、院生なのか。
日本語の先生で院生で…結婚?
え、それって無理じゃない? 年、私より結構上だと思うけど、学生結婚って大変だって聞いたことがある。
もしかして、入籍云々っていうのは冗談だったんだろうか、と希望を持ちかけたんだけども。
「高倉の先行きが明るいっぽいのはめでたいけどさ。それより、今はその愛情もりもり弁当が気になる。御厨さん、本当にマメっつーか、あんた、愛されてるよね」
「おかげさまで。新婚だしね」
…そんなうまい話、ないか。
「それな。あんたがキランキランのエンゲージはめてるの見たときも驚いたけどさ。話の展開、早いカップルだよね」
「来週からフランスでしたっけ。少女漫画の鉄板みたいな話ですよね。出会ってすぐにおつき合いと同棲始めて、速攻で結婚して、式は豪華フランス新婚旅行でふたりっきり。御厨さんのすごいところって、字面だけだとアホで計画性なしに思えることをしっかり態度と行動で、ただひたすらに奥さんにベタ惚れなだけで突っ走ってるって証明してるとこですよね」
「ディライ…あんた、何気に私の旦那、貶してない?」
「してませんよう。心の底から賞賛してます。こっそり、ミスター少女漫画って呼んでますもん」
「完全に貶しとるがな。ま、ディライの言いたいこともわからんでもないけども」
黒髪ロングの美人さんは、カラアゲを口に放り込んで何故かため息をついた。
「思春期をアメリカで過ごしたからか、日本のジェンダーステレオってどうにも受け付けなくてさあ。うちの母親も、あっちでもこっちでもバリバリ働いてるし」
「何の話?」
「毎食作って、弁当も作ってくれて、ついでに嫁のぱんつを嬉々として洗濯して、そのくせ収入もしっかりある男がいるなんて信じられねえって話」
カツ丼、噴きそうになった。
嫁のぱんつ…彼、ぱんつ洗うのか…それも喜んで…。
「ひとの旦那、変態みたいに言うなっつーの。大体、掃除と洗濯は基本的に私がしとるわ」
あ、なんだ。冗談か。
「でも、御厨さんって高倉さんのスキンケアとかもしてくれるんでしょ? こないだ、うっかり口滑らせてましたよね」
見た目、オリエンタル系美人が流暢すぎる日本語でなんかすごいことを言った。
つい顔を向けて見てしまいそうになるのを、必死に我慢する。
「いや、あれは修羅場中で、」
「そうだよね。高倉、自分のスキンケア用品も把握してないもんよ。今まで、女友達に使ってる化粧品のメーカー訊いたことは多々あれど、旦那に聞いてくるって答えた女は知らん」
「ですよねえ。あと、タンスにしまってる服が勝手に増殖するって話も聞いたことないです。さすがミスター少女漫画」
「それのどこが少女漫画なのよ」
「パートナーに似合う服、金に糸目をつけず買い揃えて勝手にワードローブ増やしていくってテッパンじゃないですか」
どこのテッパンだろう…そんな漫画、読んだことない…。
こっそり首を傾げている間にも、三人のぶっちゃけトークは続く。
「なんにしてもさー、仲がよくて羨ましいこった。あんたら夫婦見てると、人間って顔の問題じゃないんだって思わせられるのが辛いが」
「おめー、自分が顔面偏差値高いと思って、平凡馬鹿にすんな」
…桜子さん、結構口悪いな。
いや、私も気心知れた女友達とは、似たようなもんだけども。
お世辞にもジューシィーとは言い難いカツを咀嚼するために、うどん汁を啜る。
「そうじゃないっての。高倉じゃなくて御厨さんよ」
「ほづみくんの顔面がどうした。私の旦那、超絶美形だろうが」
「てめ…事実でも無性に腹立つな」
「要はあれでしょ、御厨さんみたいなスーパーデラックス男前でも、奥さん大好きで離れてるのが嫌で、連絡は一時間に一回必要で、学食とかコンビニ飯じゃなくて自分が作ったもの食べてほしいってちょっとヤンデレ入ってるから、人間わかんないもんだっていう」
……あのひと、そんなめんどくさ…いや、なんだ。
「そうそう。他人様の旦那だけど、私とかディライじゃ絶対つき合えないもんね。御厨さんって女が寄ってくるけど、モテないタイプとみた」
「それ、何が違うのさ」
「見た目とか外からわかるスペックでアホな女がホイホイされるんだけど、ちょっと親しくなってくとドン引きされる」
ちょっと、ドキッとした。
その拍子に、よく噛んでないうどんをごくりと飲みこんでしまう。
うっぷ。
「確かに、ほづみくん、彼女はいっぱいいたみたいだけど」
「どうせ長続きしないから人数だけ増えてるってオチだろ、それ」
「工藤…ほんっとにあんた、オトコいないけど人間見る目はあるよね」
「うるせえ」
「見る目ありすぎて、自信のない男は逃げてくって話ですよねえ」
「ディライもやかましいわ」
黒髪美人さんが、つけ合わせのキャベツの千切りを豪快に口に突っ込んでいく。
オリエンタル系美人がおっとりと言う。
「工藤さんの男運のなさはともかく…この間、お店にお邪魔したときに、御厨さん、盛大に惚気てましたもんねえ。高倉さん大好きで、結婚できて奥さんになってもらって幸せーって。あれで、日本人が奥ゆかしい民族だって認識、改めたほうがいいのかって思いました」
「うんうん。地球が爆発しても、あのひとの口から愚妻って言葉が出ることはないね。私らがいても、高倉の世話焼くの最優先だし、とにかくもう嫁のことは全部自分がする! 尽くしたい! 世話したい! させろ! って妙な欲望が赤裸々だった。私があのターゲットになったら、窒息死する気がするけど」
「だから、ひとの旦那をだな、」
「遠慮なくもの言ってるだけで貶してないって。高倉だってさ、御厨さんのそういうとこわかってて、それでそういうとこも好きなんでしょ」
ほんの少し間が空いて、はっきり「うん」と聞こえた。
「ならいいじゃん。正直、高倉のどこにそんなに惚れたのか、よーわからんが」
「あんたな」
「これも貶してんじゃないよ。男女の惚れたはれたなんて、当事者にしかわからんってこと。ま、そういうカップルのほうが長続きするんじゃないかなとも思うし」
「お互いの素敵なところは、自分だけが知ってればいいってことですか」
「じゃなくて、人間、いいところは誰の目にもつくし、賞賛されるじゃん。でも、見えないとことか、ダメなとこを受け入れてくれるっつーか、むしろそこに惚れてくれる相手だったら、もうそりゃ落ちるでしょ。顔が好みとかスタイルがいいとか悪いとか、そういうのきっと超越するんじゃね」
「「ほほう…」」
うどん出汁の水面を見つめる。
………なるほど。
恋愛って、奥が深い。
「でもま、料理上手くて尽くしてくれる男なら、多少のことには目ぇ瞑るけどな」
「あんた、せっかくいいことっぽい話だったのに、自分で無駄にしたな」
「だってー、毎日毎日豪華愛情弁当持ってくるわ、持ってきてない日はわざわざ家に戻って旦那お手製ランチ食ってきたとかのたまうわ、手料理に飢えてる独身アラサーにはココロの劇薬だ。本音くらい言わせろ」
「んー…でも、私、ちょっと聞いちゃったんですけど」
「何を」
「工藤さん、こないだどなたかと映画、行ったとか」
「へえ?」
「ちょ、あれはそういうのじゃ」
「ほーう。じゃあ、行ったことは事実か」
「高倉、その顔やめんか」
話題が黒髪美人さんのほうにシフトしていく。
気がつけば、私の食器も空になっていた。
彼女たちに顔を見られないように気をつけて、席を立つ。
食器返却口に向かいながら、胸の中が妙にスカスカしているのを感じていた。
なんか…私の気持ちって、恋だったのかな。
芸能人とか見て、ミーハーに騒いでるのと大差ない気がしてきた。
いや、うすうす自覚はしてたんだけど。
好きだ好きだって思いながら、結局なんにもしなかった。
名前ですら、自分で訊いたんじゃない。
そういや、歳も知らないや。
そう思う一方で、やっぱり私は彼を好きだったんだとも思う。
だって、彼を見るだけでドキドキした。
彼が淹れてくれたコーヒーだって思うだけで、笑えるくらい幸せな気分になった。
ただのミーハーで、あんなに感情が揺れるなんて考えられない。
まあ、もう終わっちゃったことなんだけどさ。
たまたまだけど、ついでに盗み聞きだけど、桜子さんたちの話、聞けてよかった。
なんたって、彼がちょっとアレなひとだってわかったのが………いや、本当に私じゃ無理だわ。
理系なのは関係ないと思うんだけど、納得できる材料があれば、気持ちを割り切るのは結構得意なのだ。
彼のことは、結婚するっていう状況だけわかっちゃって、そこでぶつ切りになってたせいでズルズルと引きずってしまったんだけど。
たぶん、もう大丈夫。
よし、しっかりカロリーもとったし、勉学に励もう。
意気揚々と学食を出て、空を見上げる。
綺麗に晴れ渡った水色は、ほんの少しだけ、滲んでいた。
久しぶりに、「The Kitchen」に行ってみようかな。
ふとそんなふうに思ったのは、春学期の期末が終わった日だった。
期末と言っても、院生のそれは学部のときのような「テスト!」とはほど遠い。
特に博士課程は。
学会モドキのプレゼンとレポートに疲れた頭が、上等な糖分でも求めているのかもしれない。
三年になる直前に学食で桜子さんの話を盗み聞きして、憑きものが落ちた気持ちになって、自然と足が向くことはなくなっていた。
真夏と言っていい気温だから、冷たいアイスティーとケーキ…ゼリーとかムースとか食べたい。
コバラも減ってるから、軽食食べてもいいし。
ざっと四年半、行ってないから、きっと新作というか、知らないメニューも増えてるんじゃないかな。
院生棟から出て、裏門に向かおうとしたとき、後ろからよく知っている声がした。
「おーい、待ってって」
足を止めて振り返ると、ひょろっとした長身の男子学生が走ってくる。背中のリュックに負けそうで怖いバランスだ。
「郁、冷たい」
すぐ傍まで来て、眉を下げる。
「何が冷たいのよ」
「彼氏が同じ教室で教授に絞られてるのに見捨てるなって」
「彼女如きが怒れる教授様の前にノコノコ首突っ込めますか」
「せめて待っててくれてもいいだろー」
「いつ終わるかわかんないんだもん。おなかすいた」
ふたりで日蔭を選んで歩き出す。
あれから、私も恋人ができた。
一緒のゼミに入った同学年の彼氏。
見た目はふつーだし、子どもっぽいところもあるけど、ひとづき合いが苦手な私に合わせて、ゆっくり歩いてくれるひとだ。
あと、ものすごく照れ屋なのに、ちゃんと気持ちを言葉にしてくれる。
「それで、大丈夫だったの?」
「うん。データ観測、初歩的なところでミスってて、博論なめんなって話だったから」
「…それのなにが大丈夫だったのか、とっても不思議だわ」
「原因がはっきりしてるからいいんだよ。やり直しで三徹確定だけどな!」
「……わかった。泊まり込み、手伝うよ」
「やった。やっぱ、郁、優しい」
ニマ、と笑う。
「あまーい。今日のランチ、和志のオゴリだからね」
「ちぇー。ま、いいけど。学食?」
「あんた、三徹に彼女つき合わせるのに、数百円で済ませようっての?」
歩きながら空を見上げる顔が、どんどんしょっぱくなっていく。
「………もしかして、駅前のデカ盛りチャーシューメン、餃子と炒飯セット奢れと?」
この界隈で最高額のラーメンセットは、学生街では非常識な二千五百円也。
でも、そこまで鬼畜じゃない。
「ケーキセットと軽食、しめて二千円程度で許したげる」
「郁さん…あんまり許していただいていない気が」
「嫌なら、ひとりで頑張るといいよ」
「奢る。奢らせていただきます」
がっくり項垂れたものの、諦めたらしい。
そして、不思議そうに首をかしげた。
「でも、この辺にケーキセット食える店なんて、あったっけ?」
「裏門出て、ちょっと行ったところにあるはずなんだよね。だいぶ行ってないんだけど」
「ふーん。…潰れてるとか、ないよな?」
「…たぶん」
移転とかならあるかもしれない。
まあ、そのときはそのときだ。
「もし潰れてたら、チャーシューメンセットでいいよ」
「商売繁盛してることを祈る」
レポートや近々ある学会の話をしながら住宅街の道を歩く。
こっちに来るのも、久しぶりだ。
前は雑貨屋があったところがヘアサロンになっていたり、空き地だったところに家が建ったりしている。
ちょっと不安になってしまったけど、ただの杞憂だった。
「ここ、このカフェ」
「へー! こんなシャレた店、あったんだ」
イギリスのコテージみたいな店も、小さな庭も変わらない。
石塀の上の看板も…あれ?
「郁? どうした?」
「ん、これ、なにかなって」
スタンドに吊るされている看板の下に、「Attention!」の文字と赤ちゃんのガラガラのイラストが刻まれたプレートが置いてある。
「…お子様おことわり?」
「それなら、子どものイラストにバツとかじゃない?」
とりあえず、今の私たちには関係なさそうなので、短いアプローチを歩いて、ドアを開けた。
相変わらずの重みと、カロンと鳴るベルの音。
冷たい空気が流れてきて、ほっと息をついた。
「いらっしゃいませ」
やわらかい声が言う。
以前と変わらないひと懐っこい笑顔で、桜子さんが出迎えてくれた。
四年経つのに、見た目、殆ど変わらないなあ。
そのときだった。
「いらっしゃいましぇー」
桜子さんのタブリエの後ろから、ちょこんと女の子が顔を出した。
途端に、桜子さんが慌てだした。
「桃っ、また脱走して! お客様、申し訳ありません」
「あ、いえ」
「桃、パパのとこに行ってなさい」
「ももも、おてつだいするー」
水色の涼しげなエプロンドレスを着たちびちゃんは、ててっとママの後ろから出てきて、私たちにニコッと笑った。
「おふたりしゃまですかー」
和志と顔を見合わせて笑ってしまいながら、頷く。
「そうです」
「席、ありますかー?」
「ごじゃいますよー。ごあん、きゃおっ」
ちびちゃんのご案内は、後ろから素早く駆け寄ってきた影に止められた。
いきなり抱き上げられて宙に浮いたせいで、手足をばたばたさせている。
「もーもっ、ママの邪魔しないっ。ほら、パパとカウンターに戻るよ」
「やーっ」
ああ、彼だ。
数年ぶりに見る好きだったひとは、やっぱりそんなに変わっていなかった。
ちびちゃんを抱っこして、私たちに頭を下げる。
「娘が失礼しました。今の時間帯、うちの娘がおりますし、お子様連れのお客様も多いんですが、大丈夫ですか」
言われて見ると、半数以上埋まっている店内の大部分が子どもや赤ちゃん連れだ。
でも、私も和志も、そういうの、あんまり気にしない。
ホッとしたように笑って、桜子さんが「お席にご案内しますね」と言ってくれた。
その笑顔に、ふと思いついた。
たいした理由はないんだけど。
「こちらに伺うの、久しぶりなんですけど、あまり変わってないですね」
前を歩きかけていた桜子さんが足を止めた。
ちびちゃんとカウンターに戻りかけていた彼も、ちょっと振り返る。
数秒、私の顔を見つめ。
「あ、アップルパイのお客様」
あの笑顔で、そう言った。
だから、私もすんなり言えた。
「あのときは、ありがとうございました。包んでもらってよかったです。とても美味しかったです」
「ありがとうございます。喜んでいただけてよかったです」
四年半の空白が急速に埋まっていく。
「今のシーズンはアップルパイはやってないんですけど、桃のタルトがお勧めなんですよ」
「美味しそう」
通っていたときにはなかったメニューだ。
和志が横で「夏っぽいなあ」と呟いた。
「ももとおんなじおなまえのー、さっぱりまったりたるとでーす」
彼に抱っこされたちびちゃんがにこにこしている。
強制的にカウンターに連行されているのに、バイバイと手を振ってくれた。
「桃ー、営業しなくていいから」
「おいちーの、おすすめですよー」
「ママの真似っこ、どんどん上手くなってくなあ」
「いらっしゃいましぇー」
賑やかな父子の会話をBGMに、桜子さんがふたり席に案内してくれた。
最後に来たときと、同じ場所だった。
でも、前よりも店内は賑やかで、開いたメニューも増えている。
「お、美味そう。郁のお勧めは?」
私も、ちゃんと大切にしたいひとができて、たぶん少しだけ大人になった。
「えっとねえ、キッシュとシチューのセットが美味しかった。日替わりのサンドイッチとかも」
「へえ。お、今日の日替わり、パテサンドだって。俺、これにしようかな」
「私はー…あ、ガスパチョの冷製パスタ、美味しそう。これと、さっきのちびちゃんお勧めの桃のタルトにしよっかな」
「郁、本気で容赦ねえ」
「三徹分だからね、アイスティも頼むよ」
きっと、またここに通うんだと思う。
今度は、ふたりで。